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Channel: 花の四日市スワマエ商店街
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四日市漫歩マップ㉖札ノ辻

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四日市宿には、本陣が2軒ありました。本陣とは、大名や幕府の役人が泊まるところで、脇本陣はその補充役、本陣で溢れた人や、ワンランク下の者の宿泊所となっていたのです。天保期(1830〜44)頃の四日市宿には、本陣2軒、脇本陣1軒、旅館が98軒あって、旅館も大22軒、中32軒、小44軒あり旅籠だらけでしたが、勤務中の宿泊です、ドンチャン騒ぎがあったのか、どうだったでしょうか?とにかく、大きな藩の通過時には、四日市宿では賄いきれないほどの人で賑わったと想像されます。定員オーバーになった場合、規模は小さいけれど“加宿”が、日永村・赤堀村・末永村に設置されていました。

本陣2軒の内、札ノ辻の南の本陣は、経営難により何度も経営者が変わっています。享保8年(1723)、続いてきた吉田家は借金が嵩み、親戚筋の太田家が経営にあたります。ところが太田家は本陣の格式がなかったため大名は宿泊しなかったのでしょうか?格をあげるための運動をして、旅籠の合意を得てようやく格上げされます。寛政8年(1796)〜文化11年(1811)資格を得た太田家の本陣が続きます。ところが太田家の経営状態も悪くなり、脇本陣を勤めていた黒田家が格上げされ本陣を営むこととなります。何時の時代も大きな建物の維持管理は大変だったようです。

格式を持った本陣は、店の前で呼び込みをしたりして一般の客を泊めることができませんでした。この対策として、本陣では“定宿大名”の確保に努めています。つまり“お得意さん大名”を沢山つくるわけです。もう1軒、辻の西にあった清水家では、建物の老朽化や地震などの災害修復のため、津の藤堂氏や長州の毛利氏、亀山の石川氏らの大名に、借金や補助金の申し入れをしています。また幕府や領主からの助成金も仰いでいました。

四日市市史研究 第13号 “四日市宿清水本陣とその宿泊者たち 大石 学氏”より


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