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Channel: 花の四日市スワマエ商店街
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四日市漫歩マップ㉗清水本陣その1

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千葉県市川歴史博物館の学芸員である池田真由美さんが四日市宿の書き物を分析してみえます。清水本陣を利用する大名は、「先触(さきぶれ)」を出して1年から遅くとも10日前までに予約を取ります。受ける場合は「請け書き」を、断る場合は「断り書き」の返事をします。先約がある場合や、災害や忌中の場合は「断り書き」を出しました。文政2年(1819)6月12日には地震の為、陣屋が大破して宿泊を断っています。また、文久2年(1863)8月11日には、清水家の隠居太兵衛が死去したため石川若狭守の宿泊を、第2本陣や脇本陣へ振り分けています。桑名や石薬師などに振り替えることもあったようです。

清水本陣の図

キャンセルされることもありました。元禄16年(1703)6月14日、内蔵頭清方は、急ぎのため四日市をキャンセルし石薬師で1泊しています。元禄17年(1704)5月2日には、松平左兵衛佐は、病気で桑名に泊まっています。キャンセルの場合、午後2時までに通知があれば、キャンセル待ちの客を清水本陣へ案内することが決められていました。準備時間に余裕があったのでしょう。しかし、4時以降になると宿間で金銭支払いが発生しました。例えば、清水本陣でキャンセルが出ます。そこで第2本陣の客が清水本陣へ移っても良いと希望が出れば、清水本陣は第2本陣へ相応の手当てを支払いました。

宿の差配がうまくいかなかったこともあったようです。この時は“相席”ならぬ“相宿”となります。文化2年(1815)5月4日、京都の宇治茶を運ぶ“茶壷道中”が、相良近江守と“相宿”になっています。茶壷と相宿です。文化2年5月9日には藤堂和泉守と毛利若狭守が同日に泊まっています。格式の高い大名同士で、部屋の取り合いはなかったのでしょうか。結構、相宿はあったようで、土地の違いから交流や情報交換もあったのかな?と思えてしまいますが・・・。  四日市市史研究 第13号“清水本陣とその宿泊者たち”より  つづく


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