これは、昭和21年か22年頃の空撮です。おそらく米軍が撮ったものと推測されますが、すでに諏訪駅が出来ており電車が走っているようです。諏訪駅の南に、大きな建物がハッキリと確認できます。瓦礫の中から、いち早く近畿館は建ちあがりました。
昭和21年頃
昭和21年4月、近畿館が実演劇場として開館。戦争で大都市の多くが焼失し、芸能人が地方へ流失しました。憧れのスターが目の前で見られるから劇場へ殺到する。芸能人たちは食糧難の都会を脱出して田舎でおいしいものに舌鼓が打てるから、お互いに大うけとなりました。宝塚歌劇団、新国劇、柳家金語楼劇団(四日市東宝)、田畑義夫、小田実、春日八郎、美空ひばり(諏訪劇場)などの有名人が来四、1興業(1日3回上演)で、3000人から5000人の観客を集めました。(ローカル映画館史 久保仁 著より)
「呪いの家」
近畿館は、この年(昭和21年)に、洋画専門の“キャピタル劇場”になり米映画“呪いの家”を上映しています。邦画の配給は、まだ不十分だったのでしょうか。
昭和31年
昭和23年、キャピタル劇場は、大改装して“諏訪劇場”となります。当初は、大映作品と歌謡ショーを上演していました。片岡千恵蔵の“多羅尾伴内”が初めに大映作品であったことから、東映の立ち上がりがやや遅れていたと推測できます。東映は、昭和24年に東京映画配給株式会社を設立し、昭和26年に東映株式会社を立ち上げているのに対して、すでに昭和17年、新興キネマ、大都映画、日活を合併させて大日本映画製作株式会社(大映)がスタートしています。
昭和32年 週刊朝日より
そして、昭和37年になると、“諏訪劇場”は“四日市東映”に名称を変更、東映時代劇の全盛期を迎えることになるのです。
昭和32年9月26日 故 辻俊文さんが撮った「諏訪劇場」前。片岡千恵蔵主演の総天然色 東映スコープ 大菩薩峠を上映中。