現在のスターアイランド跡地(現 図書館建設予定地)に、近鉄興業が四日市シネマと四日市グランドをオープンさせたのは、昭和32年9月23日のことでした。近鉄四日市駅が出来て1年後のことです。駅前に70メートル道路が敷かれ、オカダヤが進出するなど、北側には商店街が形成されつつありました。
大映の大作「釈迦」の上映中(昭和36年)です
昭和32年の開館記念に上映された作品は何だったのか?小学2年生でしたのでほとんど記憶にありません。この年、洋画では“十二人の怒れる男”(=三重劇か?)“戦場に架ける橋”、邦画では東宝の“地球防衛軍”(=弥生館)日活の“嵐を呼ぶ男”(=四日市日活)が封切られていますが、シネマ上映の可能性は“戦場に架ける橋”だったでしょうか?
地球防衛軍 真ん中に小さくモゲラが立っています
当初、我が家の横にずらり並んだ映画の看板にグランドとシネマはありませんでした。向かいの小沢さん側に立ったのです。「必ず、こちら側に立ててみせる」というお袋の固い信念に妥協する如く、やがて我が家側に移りました。つまり、招待券が入るようになったという事です。
ベンハーのチャールトン・ヘストン
“ベンハー”が四日市シネマで封切られたのは昭和35年、これは学校から出かけました。大映の大作“釈迦”は昭和36年のことです。駅前の劇場入口に大きな描き絵の看板が立てられました。
大映オールスターの釈迦
館内各700席を誇る県下一の大劇場にふさわしい作品が上映されました。その後、中学 高校とこの二館にはよく通いました。シネマは、007シリーズ。昭和41年に観た“サンダーボール作戦”は、お正月興行の満席状態でスクリーンのすぐ下で立ち観をしました。まだ、娯楽の王座は映画だったのです。グランドは、松竹の寅さん、大映の眠狂四郎や座頭市シリーズで、市川雷蔵の眠狂四郎は、少しエッチなだけに楽しみでした。仲代達也主演の“人間の条件”6部作が9時間一挙に公開されたのは昭和43年のこと、丸一日がかりの鑑賞でした。終わる頃には、隣席の他人と友達になっていたものです。
昭和40年代になると、テレビの普及と娯楽の多様化で、映画産業は下降線を辿り始めます。東映は時代劇から任侠路線に移り、大型劇場も維持が難しくなって、昭和59年7月25日、グランド、シネマは閉館。ベガ・スピカ・リゲルに移ります。
大脱走 スティーブ・マックイーンはスタント無しでバイクを走らせた
昭和38年と39年のヒット作品を列記します。如何に映画が生活と密着してしていたか、馴染みの深い作品が並びます。
<昭和38年>邦画:“にっぽん昆虫記”・“武士道残酷物語”・“宮本武蔵 一乗寺の決闘”・“五番町夕霧楼”・“新吾二十番勝負”
洋画:“史上最大の作戦”・“アラビアのロレンス”・“大脱走”・“クレオパトラ”・“地下室のメロディ”
<昭和39年>邦画:“東京オリンピック”・“愛と死を見つめて”・“越後つついし不親知”・“香華”・“怪談”
洋画:“マイフェアレディ”・“007危機一髪”・“ローマ帝国の滅亡”・“シャレード”・“大列車作戦”
マイフェアレディのオードリー・ヘプパーン
殆どの作品をDVDで鑑賞できます。良い時代に生まれたものです。