平成5年に発行の“旧 四日市を語る会 第4集”に、杉田さんが投稿しておみえで、東海道沿いにあった旧諏訪駅の様子が書かれています。杉田さんの住まいは、駅舎前のすぐ東で、隣の“青木”宅には、私の小学校時代の同級生が住んでおりました。
私の家は諏訪駅のすぐ前でした。昭和4年に新築開業した伊勢電鉄の諏訪駅はとてもモダンな駅舎でした。待合室には売店があり、金城軒の“なが餅”やタバコ、菓子(キャラメル)、オモチャ等、子供向けの品や土産物が並べてありました。お祭り時には、紙製の大入道が藁の棒に刺して売られていました。また、駅のホームには青帽が二人いて「ベントー ベント」に発声のように「ながもちー ながもち キャラメルにお菓子」といって電車の窓からお客に売っておりました。
踏切の南側にも“分駅”(少し小さかった)があって、主に、湯の山線や八王子線のお客を扱っていました。しかし、浜田方面のお客は踏切を渡らなくて済んだので、伊勢電鉄の乗車客も分駅を利用していました。分駅の待合室の前は厚い板張りになっていて、その下を川が流れていました。諏訪神社から東海道沿いに来て、ホームを横断、分駅の下から阿瀬知川へと合流していました。現在の用水路のような役目だったと思います。
当時の諏訪駅には、駅長と助役各1人、切符切りと改札係、出札係、小荷物係と、十二・三人の駅員さんであったと思います。入社したては“駅夫”といって雑役係で、下積みの後出世していきました。大したものです。
やがて戦争が激しくなってきた昭和15年頃、初めて女性の駅手さんが三人来たことも、記憶に残っております。
岡野繁松先生は、昭和17年7月 女の出札係勤務始まる 諏訪駅で・・と「旧四日市を語る」で記録してみえます。そして、西の新諏訪駅移転は、昭和17年12月29日に行われたとありました。
私の店の真ん中を、諏訪神社からの川が通っていて、30年代は板で蓋がしてありましたが、建て替えが進む中で埋められていきました。西新地から流れて来た川は、神社の中を通り、東海道沿いを阿瀬知川に流れ出ていました。
青木君宅は、倉庫のような建物で、板張りの床の隅に畳が敷いてあり、そこが生活の場だったようです。戦後のバラック建ての家屋が当時は多く見られました。
東海道筋にあった諏訪駅 2020年8月26日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)
樹林舎刊“四日市の今昔”より
昭和30年頃の諏訪公園 戦後、進駐軍が広めた社交ダンスは、瞬く間に若者の間で広がり、諏訪公園でも多くの市民が楽しんだ。右 背景に熊澤図書館が見える