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垂坂山古戦場のこと

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垂坂山古戦場のことをもう少し勉強してみました。南北朝入り乱れての闘いに伊勢の地は巻き込まれていきます。

2021年6月18日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)

鎌倉幕府は、諸国に守護、荘園に地頭の制度を布いて郡司や荘園地主の権益を守ろうとしたが、実際は、百姓から力でのし上がってきた守護大名が強大な勢力を築いてきていた。

元弘3年(1333)、鎌倉幕府が倒れると、後醍醐天皇による“建武の新政”が布かれるが守護大名はこれに反発、連立政権(室町幕府)を立てて国司と対立、南北朝時代に突入した。

伊勢の国は動乱の時代に入る。北畠顕能が伊勢の国司になると、足利尊氏は高師秋を伊勢の守護に任じ、北伊勢地方は戦乱の地となった。

延元4年(1339)北畠顕能は、萱生城を築き九鬼水軍に佐倉城を築かせた。戦は、安濃郡長野城の争奪戦となったが、正平6年(1351)顕能は、師秋を矢田城(桑名)で殺害した。

これに対して、尊氏は正平3年(1352)仁木義長を伊勢守護にして安濃郡長野城に入ったが、横暴な振る舞いが多く京都へ走ってしまう。その後、美濃、尾張、伊勢三国の守護大名となった土岐頼康は、北伊勢へと進入したが、三重郡刑部郷で北畠顕能の長男 顕泰ら5千余騎の反撃で退散した。

これで尊氏方はあきらめず、文中元年(1372)京都から戻った仁木義長が、朝明郡水無瀬山(大矢知)に城を構えたてこもった。北朝の軍勢、茂福城主の朝倉下総守と下野山城の見永七郎が攻めるが敗退、南朝側の義長軍は、朝倉軍を茂福城へと追い込んだ。

北朝の国司側は、二千余騎を送り垂坂山に陣を構えた。仁木義長の兵は山上に攻め上ったが、松の木や茂みの影から一せいに矢を射たれ、谷底へ攻め落とされて五百余人が討たれた。さらに引くところを北朝の朝倉、見永と柿城の沼木三河守が攻め、仁木伊賀守、仁木左馬助、外山播磨守、今峰孫三郎、南部左京亮、南部太郎らが討ち死にした。

垂坂山に立つ墓標の表記にこうある。

一、北畠系譜によると南北朝の頃、文中元年(1372年)北畠の重臣大宮親子入道が二千騎を率いて同山に陣取った。

一方、足利派の伊賀、伊勢の守護仁木義長 富田の豪族南部左京亮頼勝は。五百騎でこの山に攻め上ったが、大宮父子入道の戦略にかかり囲まれて谷底に追い落とされ さんざんに打ちのめされ全滅した。


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