点々は歩行経路です
釆女城は保存会の皆さんによるご尽力で、探訪出来る所となっているようですので、お天気の良い日に訪れてみたいと思います。
歴史に想いを馳せて“采女城跡保存会の皆さん” | 四日市市の学習情報サイト まなぼうや (manabouya.com)
内部河川敷から砂利が、三重鉄道で運ばれていました。釆女城跡もあり、鮎やホタルの名所でもあり、橋を渡ると杖つき坂へと至ります。
さて、三重団地内に公園として整備されている“坂部城館跡”は、 文久元年(1204)の“三日平氏の乱”の際に造られてものではないか?と、駒田利治氏が説明しておられました。四日市商工会議所発刊の“もっと知り隊検定”にありましたのでご紹介します。
西坂部城 ~「三日平氏の乱」で拠点となった城~ - 城館探訪記 (fc2.com)
平氏の支配基盤であった伊勢の国には、“元暦(げんりゃく)の反乱”後も、多くの平氏の家人や与党が住んでいました。そうした中、鎌倉幕府の御家人と非御家人の選別が進み、守護制度が整備されていきます。元久2年(1203)将軍が源頼家から実朝への交代時に、幕府の求心力が弱まった一時期がありました。これを狙って平氏の残党が蜂起したのを“三日平氏の乱”といいます。
平氏の残党が武装蜂起してわずか三日で鎮圧されたことからそう呼ばれていますが、前年末から蜂起の兆候は表れていました。前年末に守護所へ若菜五郎らが夜討ちをかけた事件をきっかけに、元久3年3月、平家党類と伊勢守護配下との間に合戦が起きたのです。朝廷は、京都守護の平賀朝雅(ひらがともまさ)に追討を命じましたが、京都出発の日の夜に、伊勢・尾張・美濃の軍勢により追討されたとの報が入りました。平氏の時代はすでに終わっていたのでしょう。