茂福城は、沖積地の微高地上に築かれ、東海道筋に位置し、現在は宅地、畑、水田となっており、その一部が市の史跡に指定されている。道路で囲まれた約14×135メートルの範囲に土塁と壕が推定でき、地割がくずれた部分に虎口を想定できるかもしれない。昭和52年富田山城線道路改良工事に伴い発掘調査が行われ、壕の一部と考えられる遺構と、戦国時代の土師器、木槌、下駄、漆器椀などが出土した。(四日市市史研究 第四集 駒田利治著)
昔、通学で、電車の窓から眺めておりました。ボーっと
永禄10年(1567)茂福掃部助盈豊は織田信長に降ったが、六角義賢に通じたため、滝川一益に長島城へ誘い出されて謀殺され、茂福城には山口次郎四郎を目代として置いたという。