浜田城址 その二
浜田城址の鵜の森神社
醍醐天皇の時代に、俵藤太秀郷(たわらとうたひでさと)という有名な勇士がいました。大織冠(だいしょくかん)藤原鎌足の末裔(まつえい)、阿部左大臣 魚名公(うおなこう)から五代の孫、従五位の上 村雄朝臣(むらおあそん)の嫡男でした。14歳で元服、その名を藤太秀郷と称しました。秀郷は若い頃から朝廷に仕え、下野国(しもつけのくに)の領主となりました。父の藤原村雄は「我が家には、鎌足大臣から伝わる霊剣がある。もう私も年老いたので、そなたに譲ろうと思う。この剣を持って、名を挙げなさい」と、三尺あまりもある黄金造りの太刀を、秀郷に譲りました。
その頃、近江の国の瀬田の大橋には20丈(60メートル)もある大蛇が横たわり、渡ることができませんでした。それを聞いた秀郷はその橋に行き、大蛇の背中を踏み越えてみせました。が、大蛇はびくともしません。秀郷も、振り返りもせずに橋を渡り終えました。その夜、秀郷の宿に美しい女が来て「私は昼間の大蛇です。琵琶湖に長く住んでおりますが、三上山の大ムカデが獣や魚を食い荒らすので、これを退治する勇士を探そうと、瀬田の橋をふさいでおりました。あなたこそ勇士です」と、秀郷に大ムカデの退治を頼みました。
秀郷は瀬田の大橋で弓矢をかまえ、大ムカデを待ち受けます。五人張りの弓に十五足束三伏(じゅうごそくみつぶせ)の矢という、大変強い弓矢です。秀郷は天孫降臨三十二神のうちの武神を祀る御上神社(みかみじんじゃ)に祈願して、弓矢の秘伝を授かったといわれています。やがて三上山からやってきた大ムカデに、秀郷は矢を放ちますが、なかなか討ち取ることができません。最後の一矢に唾をして、一心に祈りを込めると、屋は見事にムカデの眉間を射抜き、ムカデは倒れました。
秀郷が見事にムカデを退治したので、琵琶湖の竜神は大変に喜び、米俵・巻絹・鎧兜・釣鐘など、数々の宝物を秀郷に与えました。その米俵からは尽きることなく米があふれ続け、秀郷は“俵藤太”と呼ばれるようになりました。また、兜は『拾六間四方白星兜鉢(じゅうろっけんしほうしろぼしかぶとばち)』というもので、田原家に伝えられました。田原家が四代のあいだ居をかまえた浜田城の跡が、この鵜の森神社です。兜は盗難、火災にも遭遇しましたが、今も鵜の森神社に保管され、国指定重要文化財になっています。(田原藤太物語絵巻 勉誠出版より)
神社入口の左側に立つ「浜田城址」の碑
昭和初期の配置図 拝殿と社務所の位置はほぼそのままです。現在も、浜田城址の碑の後ろに土塁の面影が残ります