西側から
2022年3月15日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)
近鉄名古屋線の富田駅と霞ヶ浦駅の中間の軌道東側に位置し、城跡を標示する石柱と最後の城主茂福盈豊(みつとよ)の碑が建てられています。
茂福城址の古い碑が立つ
この碑文によると、貞冬という人物が越前朝倉氏のもとにいましたが、応永年間(1394~1428)の乱を避けて当地に移り、地名に因んで茂福氏を名乗ったとされます。また、朝明川上流の保々に城を構えていた朝倉氏は、その同族といわれています。
東から西向きに
「伊勢軍記」によれば、永禄3年(1560)に茂福氏は羽津城の田原氏と合戦に及び勝利したとあり、その7年後に城主朝倉盈豊は、長嶋で織田信長の家臣である瀧川一益(かずます)に謀殺され その際、斬られた主人の首を家臣の小川宗春が奪い取り、朝明郡保々(朝倉氏の本拠地)に葬ったといわれます。この時の戦いで茂福城は落城したとされています。
“満児喜圓大居士”とあり、墓石であることが分かります
昭和52年の発掘調査で、外堀の一部とされる遺構や土器、山茶碗などが見つかりました。四日市市のホームページより