浜田城址 其の六 雨の鵜の森
今日は雨。鵜の森公園を南から入る。
遠くに冠木門が見える
<浜田城の歴史>
明徳3年(1392)南北朝統一。北伊勢は48家が割拠。
元中9年(1392)佐野景綱(田原秀郷を祖とする)が三重郡栗原に赤堀城を築く。
応永35年(1428)赤堀城は次男の景宗に継がせた。景宗は長男を羽津城に、三男忠秀を浜田城に封じ、赤堀本家は関氏の次男を養子とし継がせた。
弘治~永禄年間(1555~1570)東海道を浜田城の東に移し四の付く日に市場を開いた。
永禄1年(1559)長野勢が塩浜に上陸、浜田と堀木勢が迎え撃ち撃退。塩浜合戦。
永禄2年(1559)関城主安芸守、神戸蔵人友盛方の茂福城を攻める。茂福合戦。
永禄3年(1560)織田信長、今川義元を討ち取る。桶狭間の戦い。
永禄10年(1567)織田信長、北伊勢に侵攻。員弁、桑名、朝明、三重降伏。
永禄11年(1568)長野城主工藤藤定、赤堀城を攻め降伏させる。
織田信長第2次北伊勢侵攻。
足利義昭第15代将軍に任官。
永禄12年(1569)織田信長、伊勢国司北畠具教、具房父子を攻め信長の次男信雄を養子としていれ和睦。その後信雄は天正4年北畠を滅ぼした。
此処が鵜の森神社と公園の境
元亀1年(1571)姉川の闘い 織田、徳川連合軍の大勝利。
滝川一益が茂福城主朝倉掃部介盈豊を桑名矢田城でだまし討ち。
織田信長、比叡山焼き討ち。足利幕府滅亡。
元亀2年(1572)羽津城主田原右京亮近宗、茂福城にて滝川一益の家臣山口四郎右衛門に毒殺され、同時に羽津城も攻められ落城。
天正1年(1573)織田信長、長島願証寺を6万の大軍で襲撃。
天正2年(1574)織田信長、北伊勢の寺院を焼き討ち。
天正3年(1575)滝川一益が浜田城、赤堀城を攻略。中川掃部助奮戦討ち死に。
戦は何時も残酷です