現在位置から谷に沿って敵が攻めてくるのを想定
釆女城を納めた後藤氏は、藤原氏の流れをくむ河内の武士で、代々源氏に仕え源頼義(前九年の役の武将、鎌倉に鶴岡八幡宮を建立)配下七将の一人であった。
谷を手摺りに沿って上る
後藤実基の時、源義朝の家老格として その子基清と共に平治の乱(1159)、屋島の合戦(1185)に活躍し、平治物語・源平盛衰記・吾妻鑑に登場している。子孫は鎌倉幕府に仕え 六波羅評定衆や検非違使に任じられた。
五の郭の下、虎口(こぐち)と思われる所に達する 五の郭から矢を受けながら・・・
文応元年(1260)後藤基秀の時 先陣に加わり功あり、伊勢の国三重郡釆女郷の地頭職に任ぜられ、一族郎党を引き連れて釆女の地に入り宇野部山(釆女山)に城を築いて住んだ。
本丸(一の郭)へは五の郭に沿ってエル字型に回り込むようにして入る
室町時代から戦国時代にかけては、北勢四十八家といわれた三重郡・朝明郡・員弁郡・桑名郡の北方諸侍の中にあって、良く家筋を護り釆女七郷を治めた。
五の郭に沿って空堀をまたぎ本丸(一の郭)へと入る
後藤藤勝の時、「永禄十一年(1568)織田信長の軍勢により滅ぼされ城遂に廃す」(伊勢名勝誌)
一の郭
その際、千奈姫が落城の時、井戸へ身を投げて亡くなったと伝えられている。釆女城跡(釆女城跡保存会)より