釆女城址へ出かけた。さて、波木町から入るか、内部から入るか迷ったが、内部側(東)から入って内部川沿いに進み、帰りは波木町(西側)へ抜けた。内部川沿いに行く道は狭いので、南自動車学校の方から進んだ。
城址入口の東に、矢矧橋の案内板が立つ。その内容は悲しい。
此処には、のどかな日常の風景と、戦争の悲劇が書かれていました。
“矢矧橋(やはぎばし)と釆女城ゆかりの地名”
鎌倉時代から戦国時代、小高い山の上に釆女城があった。釆女城は文応元年(1260)築城、永禄11年(1568)織田信長勢によって滅ぼされた。(築城、落城年は異説有)
内部川にかかるこの「矢矧橋」は、当時、このあたり一面が竹藪で、釆女城の家臣が竹で矢を作っていたことからその名がついたと言われている。
城跡の西側には、「ごくろ橋」と称する橋がかかっている。釆女城の番所がこの辺りにあり、番所に詰める武士が交代時に「ご苦労」と言ったことに由来するとか、橋のたもとで女子衆(おなごしゅう)が洗濯などをしていて、通る人に「ご苦労さん」と声をかけていたことに因んだ名であると言われている。
また貝家町には「なこの坂」という坂がある。釆女城が織田信長勢に攻められ、敗残の武士や農民たちが泣きながら逃げたことが、その名の由来とされている。
内部川と足見川が交わる橋の処に、狭い空き地があったので、そこへ車を停めた。
道路沿いから一気に階段となる
階段を上がったところが平地になっていた。そこにパンフレットと杖が用意されていた。この後、杖をお借りして登らなかったことに、後悔することとなる。