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Channel: 花の四日市スワマエ商店街
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“マンガの原点は貸本だね” その二

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昭和31年4月、大阪の日の丸文庫が、短編集『影』を発刊しました。初めはそれほどの売れ行きでもなかったのですが、ハードカバーから、安くあがりスマートさを狙ったA5版の巻カバーに変えると大ヒットしました。

『影』の後すぐ出た『街』は、関西のさいとうたかおや辰巳ヨシヒロら“劇画工房”の人たちでした。東京のマンガは、子供マンガの伝統を引く上品なマンガでしたが、関西の劇画は勢いがあるが下品でヤケクソでした。

発行部数は、最盛期時の昭和32年頃で『影』は8千部、『街』で6千くらいでしたから、実際、貸本で借りて読んでいるのはその30倍くらいあったと思います。

貸本マンガ家は二百人程いたと思いますが、全員が手塚治虫さんの影響を受けています。手塚さんを別格とすれば、「劇画」という名前を付けた弟の辰巳ヨシヒロでした。「影」や「街」の形を作ったのも弟です。

“劇画工房”の集団が、関西から東京へ出てから、さいとうたかおさんがすべてになったのです。さいとうさんと白土三平さんは教祖みたいなもんですが、白土さんも初期の頃には手塚さんの影響を受けています。

独自なかたちで突出していたのが小島剛夕さん、平田弘史さん、永島新司さんです。小島剛夕(四日市出身)さんは描くのが早かった(人の3倍の速さで描き、仕上がりが崩れない)し、平田弘史さんはストーリーも絵も凝っていました。

貸本業界が下り坂に向かった昭和38年頃、私(桜井昌一)が関係を持っていた17の出版社はほとんどが潰れ、大阪の日の丸文庫1社だけになりました。絵描きさんも20人程しか残らず、みんなやめて悲惨な状態でした。つげ義春さんも、襖か障子張りをしていたようです。資本力の弱い業界でした。

それが数年経って大手からものすごい需要が入ったんです。週刊「少年サンデー」や「少年マガジン」の発刊でした。


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