昭和31年、辰巳ヨシヒロは日の丸文庫で『黒い吹雪』を発表、子供マンガの域を超えた「劇画」の登場である。
彼はその年、劇画短編集の「影」を発行、貸本業界に空前の短編ブームを起こした。
辰巳氏は、翌32年 ミステリィ劇画と称する『幽霊タクシー』を描き、この時初めて“劇画”という言葉が生まれた。この頃、“俗悪漫画”といった貸本マンガへの批判が出始め、かれは、子供マンガと一線を画する必要があると考えていた。
また、昭和30年代になると、少女マンガにも新しい傾向が出た。そのひとつに高橋真琴(19歳)が雑誌「少女」に発表した『パリ~東京』がある。“不幸な少女の波乱万丈ストーリー”のこの作品は、フランス語をカタカナ表記で書いたり、調度品を洋風で描いたりして、戦後読者の西洋への憧れを誘った。
手塚治虫は昭和26年から「少年」(光文社)で『アトム大使』を連載、のちに『鉄腕アトム』となって、アニメ化されるなど大きな反響を生んだ。
横山泰三は「サンデー毎日」に“おとなの漫画選集”と題して『ミスガンコ』を連載開始した。
前年の昭和30年、石森章太郎(当時高校2年生)は、『二級天使』で「漫画少年」にデビューした
(子供たちに夢を与えた「漫画少年」は、間もなく休刊となるのは、映画「トキワ荘の青春」にも描かれている)。そして、石森氏は、昭和31年にコナン・ドイル原作『まだらのひも』を「少女クラブ」7月号付録に発表している。
こうして子供マンガは、刺激の強い劇画と少女マンガ(「怖いマンガ」と「悲しいマンガ」)へと別れていく。 昭和32年へ続く