令和4年7月24日で、“四日市公害裁判”の日からちょうど50年の節目を迎えます。
昭和42年9月1日「喘息は企業の排煙が原因である」として、9名の住民が損害賠償請求訴訟を起こした。
原告の皆さん(四日市公害と環境未来館 提供)
訴訟から5年ほど経た昭和47年7月24日、津地方裁判所四日市支部の米本清裁判長は、「原告の疾患は企業の排煙が原因で、企業六社は共同して不法行為を続けてきた」として原告の主張を全面的に認めた。大規模な大気複合汚染についての企業責任を初めて問う裁判であったが、この判決に対して被告の六社は控訴しなかったため、一審で確定した。(北野 保)“四日市市の今昔”樹林者刊
判決の日
私の父親も喘息を患っていた。住まいが別だったので夜中に苦しむ様子は見ていないが、医師会館へ定期的に連れて行き、認定患者の検査を受けた。“ハイ!息を吐いて!もっと、思い切り吐いて!”と、あまり親切な扱いを受けなかったような記憶がある。
諏訪百貨店屋上より東を望む 昭和39年9月15日 辻 俊文氏撮影
旅行へ出かけると宴会の席で女中さんから「どちらからお見えで?」と尋ねられる。「四日市」と答えると「公害の?」の返事をもらった。旅先から帰ってくると、大気の臭いから、四日市の街がいかに公害の中にあるのかが良く分かった。