四日市大学特任教授 波多野憲夫氏が退任するにあたり、四日市の石油コンビナートがどのように形成されていったのかを「四日市学講座 なぜ都市計画は四日市公害に無力だったか」(平成23年)で書いてみえます。
富田浜海岸と四日市学 - 花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)
「都市計画は公害を防止できたか」を、結論から申しますと「石油コンビナートの形成を推し進めることこそすれ、公害を克服するには無力だった」ということです。
過去実施された4つの都市計画プランで説明します。
昭和11年:当時の都市計画は国家事業でした。内務省から出向の官吏や技師らによる“三重県地方委員会”で運営されており、四日市市の都市計画は、商業地域(ピンク)・工業地域(ブルー)・住居地域(グリーン)・未指定地域(イエロー)に分けられました。注目は、昭和13年に“臨海土地区画整理区域”として、市の南部農業地域一帯(塩浜)を工業地帯として決定されたことです。当時、羊毛の陸揚げが全国の50%に達していた四日市のさらなる発展を期待してのことでした。「土地区画整理は都市計画の母」とまで言われた時代でした。
昭和11年四日市市都市計画用途地域指定図
昭和16年:四日市石油コンビナート形成の原点となる計画でした。昭和13年の“臨海土地区画整理区域”180万坪が、(富田・富洲原の合併がありましたが)778万坪に拡大され、石原産業と東邦重工に海軍燃料廠が加えられたのです。当時の三重県都市計画課長の兼岩伝一は「突然ニ重要施設ノ設置ガ決定サレタ」と言っています。背景には戦時体制下の国家政策がありました。軍備充実の為の工業の地方分散に、四日市も組み込まれていたのです。
昭和17年四日市市都市計画図
次に、午起海岸や霞ケ浦海岸を埋め立て、富田浜に向けて工業地帯とする整備構想が描かれます。これで、塩浜地域から桑名港に至る延長21キロメートルの海岸を埋めて、3200万坪の工業地帯構想が計画されました。
第1臨海土地区画整理事業
また、昭和17年に市街地を南北に分断させていた関西急行(現 近鉄)を国鉄四日市駅から分離させて(諏訪駅の廃止)現在の位置へ移す計画も出ていましたが、実施は戦災復興都市計画による昭和31年となります(近鉄線の短絡化は都市計画によるものだったのです)。
伊勢臨海地方計画
時は終戦を迎え、昭和35年には“四日市総合開発計画”が作られますが、この計画は、四日市の重工業化を進め“四日市公害”を生み出すに至りました。
<付録> くるべ遺跡のこと
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