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Channel: 花の四日市スワマエ商店街
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なぜ都市計画は四日市公害に無力だったか 戦後編

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昭和33年:市が国土計画協会に委託して“四日市総合計画の構想”が作られます。それによると「市の南部塩浜地区は石油精製を中心に、北部では埋め立てにより鉄鋼業を立地させる。この工業計画が四日市総合開発の出発点であり、目標である」とあります。臨海部の工業地帯と居住地域を生産緑地、公園などで遮断して南北に発展する帯状都市構想が提案されています。

終戦による海軍燃料廠の払い下げ問題は、昭和石油と三菱油化に決まりました。石油コンビ―ナートの形成です。続いて、霞ケ浦地帯を埋め立て八幡製鉄の誘致が計画されました。こうして埋立てた臨海部を工業地帯、西の丘陵地は住宅地とし、その間を水田や公園等の生産緑地にして、そこに南北のバイパスによる産業動線を配置することで、東西の生活動線と仕分けする計画でした。この背景には、石炭から石油に代わる国のエネルギー政策があり、四日市市は、昭和37年に出された工業都市計画の調査研究対象となっていたのです。

このプランは結果的に理想的な工業都市の提案の下で第3コンビナート(霞ヶ浦地区)の埋め立て工事を容認し、海岸線を重化学工業によって独占的に利用することを受け入れる役割を果たしたのです。第三者の機関に委託された策定事業も、市独自の計画を立てるに至らず、従来の産業振興施策と国の指導に押し流されるに至りました。

昭和41年:昭和42年に公害裁判が起こされています。そんな社会問題が大きくなるさなか、公害対策を意識して“四日市市都市公害対策マスタープラン”は作成されました。「産業公害の除去は難しいが、大気汚染の悪化は止めることができる」と前提で書いています。しかし、重化学工業地帯の予定であった霞ケ浦地区埋め立て工事は昭和45年に完了し、八幡製鉄との誘致話がとん挫しているかわりに、大協石油化学の用地取得を受け入れます。

マスタープランでは、国道23号線と1号線の間を、工業系立地の区域として計画、その西側を“住宅規制地区”として新たな住宅建設の禁止と、住居の移転を図りましたが、法的に取り締まることが出来ず、集団移転も111戸で終わっています。

さらにその西側には、新市街地の建設計画が立てられ、移転住宅建設が進められました。昭和40年以降、あさけが丘団地や笹川団地の造成が始まっています。この「工業」と「住宅」を分離する構想は、都市改造による公害克服といえます。マスタープランは、今日の都市構造に影響はある計画でしたが、公害被害者からは「夢のような都市改造より徹底的に公災害の除去をなすべきである」との批判が出ていました。

戦前から大気汚染は公害を生むことは知られていました。にもかかわらず、なぜ都市計画に反映されなかったのでしょうか?


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