大正18年に制定された“都市計画法”を旧法、昭和43年制定を新法といいます。
今まで述べた四つの都市計画はすべて旧法に基づいて施行されていました。「都市計画委員会ノ議を経テ」「内務大臣」が決定し「内閣」の認可を受ける、つまり都市計画は国の権限によって行われていた、そして戦後は国指導の委託事業として作られていました。こうした事業は、国家による“開発のための都市計画”だったのです。開発構想は、市民や住民の関与以外のところで作られてきたといえます。
都市計画は、市民の生活空間である土地の利用方法に、“公共”が介入する形で発展してきました。石油コンビナートのような他者を圧倒する独占的土地利用に規制が求められました。ところが、四日市公害と都市計画の関係は逆でした。では、昭和43年改正後の都市計画法が公害を防止できたでしょうか。確かに昭和43年制定の“新法”以来、権限は国から市町村に移されてきました。しかし、改正後の都市計画法で、海岸線に広がる石油コンビナートの独占的利用を防げたかどうか・・・?“公共の介入”の公共とは、市民・住民の共同意思に基づく“公共”なのか?国の開発指導による委託期間の“公共”なのかどうかが、問われるところです。
四日市大学特任教授 波多野憲夫氏が書かれた「四日市学講座 なぜ都市計画は石油コンビナートに無力だったか」は、図書館で読むことができます。結論を言えば“四日市公害”は、国の開発方針によって起きた災害ということになります。地域が中央任せにしないで、自分たち地域のことは、自分たちなりにしっかり考えようね!というところに落ち着くのではないかと思いました。
自分なりにまとめてみたのですが、明快な推理とはいかなかったようです。是非皆さんも、公害裁判の節目の年にこの本をお読みいただき、四日市公害を一考していただければ幸いです。