前回掲載した南町のからくり山車は“年によって変わった”とあり、“旧四日市を語る”の第9集で、竹野さんがこのことを話してみえました。
竹野新衛氏「南町の練りは、明治時代に浦島太郎・天岩戸・大蛇退治と3回変わっています。印象に残るのは“浦島太郎”で、三体の人形が立ち、真ん中の人形が三番叟を踊ってひっくり返ると袴が左右に開いて海辺の景色になり浦島太郎が出てきました。そして、玉手箱を開けると煙が出る(この煙はたばこでした)。すると、浦島太郎の胸元が開いておじいさんになるという趣向でした。私は、昭和9年の小学3年の頃に練り引きに出ました。年によって岩戸山になったり大蛇退治だったりしましたが、大蛇退治が最後だったと記憶しています。ほとんどのお囃子は練りの中で演奏されたましが、北町と南町は、芸子衆が“底抜けやかた(枠の中でお囃子をしながら歩いて進んだ)”で練りについたので、芸子さんを見ようとみんなが集まってきました。
南町の小山「大蛇退治」
久六町の大名行列、村上さんが頼朝になった体験を話してみえます。
村上 正「私が頼朝さんになったのは3年生の時で6年生までさせていただきました。各町の受所では“殿さん”と言われて優遇されました。行列の“槍”は、行きは立てていますが、帰りは倒して歩きます。辻にある岡田屋さんの前まで来たとき、馬の頭に槍の毛があたり、乗っていた僕は落馬しました。幸い軽い脳震盪で済みましたが、北町の山田医院へ連れて行かれた覚えがあります。
司会「頼朝さんのとっておきの話があります。休憩時になると芸子さんらが競って頼朝さんを抱いたそうです。ご利益があるということで・・・。(子供デヨカッタ・・・)
久六町の大名行列 頼朝さんがみえます
明治44年頃の町割り
竪町の小山“唐子遊び”は、「仏壇山」とも呼ばれ、天井の屋根を持つ一風変わった練りでした。下段では唐子が遊ぶさまを現したからくり人形が付きました。
竪町の通称 仏壇山
東中町の釣り物“謡曲人形”は、6基の人形屋台が担いで練られました。内容は、「橋弁慶(義経と弁慶が京都五条の橋で出会う)」「田村(坂上田村麻呂の化身が清水寺を訪れる)」「浦島(天皇の使いが丹後の浦島神社に詣でると明神から不死の薬を受ける)」「高砂(夫婦愛と長寿を愛でる)」「熊野(平宗盛に使える熊野が、母を見舞うため遠江の国に帰る)」「猩々(しょうじょう)(猿に似たけだものが、酒に酔って舞いを披露する)」でした。明治26年に200円(今だと400万円くらいか?)をかけて修理されました。(前田憲司氏談)
東中町の“釣り物”
西中町の小山“司馬温公の甕破り”は、現在も“四日市商店連合会”で復元されています。中国、宗の時代学者 司馬温公が高価な甕を割って、中に落ちた子供を助ける故事にちなんだからくり人形です。当初は、唐船山車だったのが、明治28年にからくり人形山車としてお披露目されています。「教育の為には ま ええやろ」ということで造られたそうです。
西中町の甕破り山車
復元された 四日市商店連合会の甕破り山車(2015年10月4日)
<またまた 浜田小学校のこと>下総人さんからコメントがあり、昭和20年6月18日の空襲時に、浜田小学校は東南の校舎が被災を免れたらしいとの情報をいただきました。空撮から見ると、どうやら残っているようです。(中央を南北に東海道が通ります。左 鵜の森公園)運動場に付く碁盤の目は、畑か?