お祭りになると、店の商品(仏壇)に幕を張って屏風を立てました。一番広い座敷には赤い毛氈が敷かれ、すっかり祭りの雰囲気です。三日間は店が休み。日ごろの感謝で“おもてなし”の日になります。梨と渡り蟹を仕入れ、母親は、巻きずし、稲荷寿司、押し寿司の準備に大わらわでした。父親は祭りの間は、新田町の小山“天岩戸”のお囃子(笛担当)に付きっ切りで帰ってきません。昼前になると弁当をもって父親を捜しに出たということでした。新田町の練りの助っ人には、松本村の衆が来てくれたそうです。年に一度の“ハレ”の日を、子供たちも大いに楽しみました。
明治44年の町割り図 補足:辻を中心に、竪町、中町の通りを「北浜往環」。その南に並行して通る 上新町(かみじんまち)から下新町(しもじんまち)までの道を「南浜往還」といったそうです。
下新町(しもじんまち)の小山“弁慶と牛若丸” 山車に屋根がなかったので“露天からくり人形山車”といいます。京都五条の大橋で牛若丸と弁慶が戦ったからくりです。これより以前の形、昭和初年の頃は、鞍馬山で天狗から剣術の教えを受ける牛若丸のからくり人形でした。(前田憲司氏談)
下新町の“弁慶と牛若”
浜町の釣り物“傘鉾 時代人形”は担いで練られました。①浦島、②武内宿禰(たけのうちすくね)古代天皇に使え、日本統一に尽力した大臣、③靭猿(うつぼざる)狂言の一つ、大名の命に従わなかった猿回しと猿が、命と引き換えに舞を舞う、④石橋(しゃっきょう)、⑤加藤清正、⑥牧童、豊臣秀吉の幼児時代のこと ⑦俵藤太、近江の国瀬田の唐橋で百足退治をした豪傑 藤原秀郷の別称、
2022年3月18日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)
⑧頼政、平安時代末期の武将 源頼政のこと ⑨小鍛冶(こかじ)、能楽の一つ。一条天皇の命を受けた、刀匠の三条小鍛冶宗近は、稲荷明神の狐の助けを借りて名剣“小狐丸”をつくりあげます ⑩為朝、鎮西八郎為朝が弓勢を琉球人に射る図 ⑪諏訪大神萬度祓 一万度祓いの式典の図 の11の人形が傘の上に飾られ、傘の下には赤い布が貼られ、吊り下げられた鈴が練り歩くたびにチリン チリンと鳴り響く優雅なものでした。浜町は、神社前の幟旗立てを担う町で、現在にも引き継がれています、と思います。
浜町の傘鉾“時代人形” 大人が子供たちに練りの説明をしたのではないでしょうか?
新丁の小山“菅公謫居(かんこうたっきょ)の状” 「謫居」とは、罪によって遠いところへ流されることです。学問の神様と呼ばれている菅原道真が、流罪先の九州大宰府で子供たちに習字を教えている様をからくり人形が演じます。筆を持った子供が、もう一人の子供が持った額に字を書きます。明治23年から菅公になりましたが、それ以前は、謡曲から漢の武帝時代の学者 東方 朔 の人形だったそうです。昭和20年の空襲で焼失しましたが、戦後再建されました。(前田憲司氏談)
“祭神”と書かれました 文字は毎年変わります街道のような家の並びの向こうには 松林があるようです どこで撮られたのか??皆さんおしゃれをしているようですね
<追記>
“大名行列”の人練りで、久六町は“江戸へのぼる行列”(足を前へ上げて練る)と、比丘尼町の“江戸から帰る行列”(後ろへ足を上げる)がありますが、気になるのは明治42年発行の“四日市祭案内記”の“久六町”にこう書いてありました。
久六町の大名行列の図
「此の町も、前町(比丘尼町)と同じく大名行列なり 但し この町のは“引き行列”と唱へ足の踏み様 少く異なりて 退却の時の式なりといふ 共に当地に於ける 一種の時代祭といふべし」