続いて、中村さんが“旧四日市を語る”で、このように話してみえました。
「祭り当日は、親戚が祭り見物に来ます。家では、巻き寿司、揚げ寿司、押し寿司などでご馳走をして迎えました。子供たちは奇麗に着飾ってお化粧をしてもらいました。祭りになると呉服屋さんが繁盛したものです。各町の山車や大名行列、富士の巻き狩り、釣り練り等、立派な練りばかりでした。印象に残る27日夜の『帰り山』は見事なものでした。昼、神社に練り込んだ各町の練りが、夜になると工夫を凝らした変装で各町へ帰っていくのです。南町の通りは黒山の人だかりになり、警察官が大勢出て交通整理をしていました。
また、祭りになると神社の境内や西の諏訪公園、それに公園の南の空き地にはサーカス(曲馬団)・見世物小屋(ろくろく首、牛女、蛇女等)・のぞき・賭け将棋・おもちゃ・風車等の店(露店)が出ていました。サーカス小屋からは“天然の美”の音楽が流れて、テントの前には象や馬が繋いでありました。時々幕が上がって中の様子を覗かせ、客が入りたくなるようにしていました。“のぞき”は2mくらいの箱が横にして置いてあり、上には屏風のようなものが乗っていました。箱にあけてある10糎くらいの穴から中をのぞくと『不如帰』や『石童丸』、『金色夜叉』が絵物語にしてあり、台の横では男の人が鞭を叩きながら口上を言っていました。クライマックスになると上の屏風が広く開かれておしまいとなりました。
大正11年8月の四日市港付近の図
私「昭和30年代にもサーカスは来ていました。小学校へは、その期間だけサーカス団の子供が入学してきました。お祭りが近づくと丸太が立ち、縄で繋がれた大きなテント小屋が造られます。巨大な球体の枠が小屋の前に組み立てられていて、プログラムに合わせて会場内へ引き込まれます。すると大きな音でオートバイがその中を回る音がしました。しかし、何といっても花形は、空中ブランコでした。下には安全のため網が張られていて、道化が落ちたりしていました。最後は一人ずつ網に落ち、くるりと体を交わして最後の挨拶をしていました。あ、今思い出しましたが、入場通路途中で、強制的に座布団が5円でレンタルされているのを不愉快思った記憶があります。
北納屋町 船山車 鯨船 勢州組 張りぼての鯨を豪華な鯨船の山車が追いかけて銛でしとめるさまを演技する、「勢州組」と称して、嵐の日の鯨取りを現しています。
前田憲司氏談
蔵町 露店からくり人形山車 岩戸山 天宇豆売命(あまのうずめのみこと)に化けていた狸が、鉦鼓の音に驚き正体を現し,腹鼓を打ちながら睾丸を膨らませるというユニークなからくり人形。大入道と同じ人形師が作ったと伝わっています。
本町さんが復元してみえます