昭和37年5月発刊の“商連ニュース”より
『明治末期の四日市』の風景
私の子供のころの四日市は“市”と云ってはいたが、実に貧弱なものでした。家並みが揃っているのは“旧東海道”にあたる川原町、北町、南町、新田、江田(えんだ)、北浜田、南浜田を貫ける1本と、西町から札ノ辻を通って竪町、西中町、東中町、浜町、蔵町、稲葉町までの北浜往還の1本と、西新地の新地座(弥生館跡)前から上新町、中新町、四ッ谷町、下新町、新丁を通って国鉄四日市駅へ通じる南浜往還の1本でした。
明治44年 中心市街地
その他に、納屋五ヵ町と高砂町、稲葉町に家は建っていましたが、有力な小売店はありませんでした。蔵町の大部分は肥料倉庫で、肥料店と銀行、郵便局が倉庫の間に挟まっていました。
北納屋、南納屋、袋町は、漁師と船頭と沖中仕の住まいで、中納屋と桶の町は旦那衆の本宅ばかりでした。
明治44年 四日市港付近
橋北は、川原町通りの両側に一重並びの家が建っていましたが、その他は一面の水田でした。浜一色は、八幡神社を中心に40~50軒の農家があって県立商業高校があるのみでした。新浜町一帯は、一面の水田で、所々に松山が点在しておりました。舟坂橋(現在の老松橋)の北詰めに養鶏場が2~3軒あり、その水田の畔を通って商業学校へ通ったものですが、梅雨時になると田の水があふれて通れなくなり困ったものでした。
明治44年 三滝川北
現在(昭和37年頃)の八幡町の住宅街(東洋紡績)も明治末期は水田でした。中町から八幡さんの前を通って三滝川堤防の銀杏の木までの通りと、北条の電灯会社(現:中部電力)から慈善橋に通じるには家が建っていましたが、その間の八幡町一帯は水田でした。只、この八幡町に大蔵省収税部(現:税務署)があったことを知る人はみえないでしょう。