明治末期の諏訪新道商店街は、幅2メートル位の耕作道で、両側は水田であり所々に「だしがめ」という人肥貯蔵かめが点在し(要するに肥溜めですな)、人家は農家が少し建っている程度でした。現在の郵便局、電話局、中央小学校の付近も大部分が水田でした。建っていたものは、市役所と女学校、乳貰観音(現:観音寺?)だけでした。下新町の得願寺の裏から望むと乳貰観音までは一面の水田でした。諏訪神社の裏手(現:諏訪公園)は、南町の川守屋 山口喜七氏所有の広さ300坪ほどの溜池であって、蛇や蛙の巣窟でした(後の保光園でしょうか?神社の土地ではなかったのか?)。
明治28年四日市商業会議所発行
現在の近鉄四日市駅西に建つ“天理教教会”は“かもん堂”という森で(現在でもかもんど塚は本殿前に立っています)、昼でも暗く、小さな祠があって大昔果し合い(?)があったところで、火の玉が出るといわれ子供も寄り付きませんでした。諏訪神社から西を見渡すと、芝田村、中川原村まで一面の水田でした。ただ、堀木の火葬場だけがぽつんとありました。
旧東海道を南へ、江田(えんだ)と浜田は街道沿いに家があるだけで、裏手は一面の水田でした。
大正10年不動寺の竜灯の松
新丁通りも当時は、不動寺と鈴木眼科病院のほかは農家や牡蠣取り(?)が多くて商店は少なかった。不動寺には樹齢1000年の大松があり高さ数十丈、太さは直径20尺ほどあり大昔その上に灯火を点じて「竜灯の松」と呼ばれたが、大正10年頃に枯れてしまいました。特筆すべきは、当時新丁に米穀取引所があって繁盛を極めていました。唯一公認の投機市場だったのです。