「快傑ハリマオ」は、昭和35年4月5日から、翌年の6月27日まで、日本テレビ系列で5部65話放送された。
テレビのカラー放送が始まりました。もちろん当家には、カラーテレビジョンどころか テレビがあったか 近所へ観に行っていたかの時代でした。
製作は『隠密剣士』や『月光仮面』のヒットを飛ばした宣弘社である。『隠密』『月光』が日曜夜7時からのゴールデンタイム放送に対して『ハリマオ』は火曜の7時半スタート、にもかかわらず大ヒットを飛ばした。
また、石ノ森章太郎が創刊間もない「少年マガジン」に漫画連載を開始した。提供 森下仁丹“♪ジンジンジンタン ジンタカタッタッタ”のハーモニーで主題歌とともに子供たちの記憶に焼き付けられた。
“ハリマオ”は、マレー語で“虎”のこと。実在した日本人で本名を谷豊といった。谷豊は、福岡市で理髪店の長男として生まれた。知人からマレーは景気がいいことを聞き、マレー東海岸の港町、トレンガヌへ渡って理髪店を開業した。子どもの頃の遊び相手は中国人やマレー人だった。このことが後の“ハリマオ”としての活躍に結びつくことなったと考える。一時、勉学のため日本に帰るが再びマレーへ。それからは理髪店の手伝いをすることとなる。親分肌で面倒見の良い男だった。
大正7年、徴兵検査のために再び日本へ戻るが、身長が届かず不合格。地下足袋製造工場や鉄工所で働くが、マレーへの思いは募るばかりで、喧嘩っ早さが鳴りを潜めることはなかった。そうした中、昭和6年12月マレーの父が逝去。この年起こった満州事変に反発した華僑は、昭和8年日本人街を襲い、寝ていた9歳の妹が惨殺される。昭和9年、豊は仇を討つためマレーへと渡った。
トレンガヌへ戻った豊は、理髪店を営みながらマレー人を手下に強盗団を組織して、華僑の営む商店や銀行、イギリス人の屋敷などを襲撃した。襲撃、逮捕、収監、釈放、果ては脱獄まで繰り返す生活だった。
日米開戦の昭和16年、陸軍参謀や中野学校の出身者らによって設立された“F(藤原)機関”に目をつけられた豊は、諜報機関の協力者となり、開戦後は橋や情報網の切断などのかく乱工作に従事した。しかし長年のジャングル生活で、マラリアや肺結核に蝕まれ、昭和17年3月17日、シンガポールの病院で世を去った。享年30歳。開戦の12月8日からわずか99日間、日本人として戦ったその生涯はあまりにも短かった。
ハリマオの部下は3000人と噂されていたが、常時連れていたのは7~8人で、周辺のシンパを入れても100人程度だったようだ。谷の美談は日本軍によっていいように利用されていて、<お国のために>と書かれた母への手紙も代筆だった可能性が強い。
しかし戦後、『快傑ハリマオ』として登場した谷豊は、ジャワ独立運動に身をささげる英雄として活躍することとなるのです。
さて、怪傑ハリマオクイズは?
昭和35年~36年放送の『怪傑ハリマオ』の主題歌を歌った歌手は?
A.三波春夫 B.村田英雄 C.克美しげる D.三橋美智也
村田英雄が一番怪しい???