播磨良紀教授は“歴史講演 四日市と徳川家康”で語る。
徳川実記(たかそう…)
「徳川家康が本能寺の変(1852年6月)の折、四日市の湊から三河へ渡海したという伝承があります。ところが四日市ばかりでなく伊勢湾地域でたくさんの渡海伝承があるのです。それは後世に書かれた文献資料が多いので、証拠づけるものがほとんどありません。江戸幕府の歴史書である「徳川実記」には“白子”からとあり、四日市の庄屋さんが書かれた「井島文庫」には“四日市”から渡海したとあります。江戸前期の「石川忠房留書」には“四日市”と記されている。しかしこれらには物的証拠がないわけですね。私は、どこから渡海したということよりも、なぜこのような伝承が出てくるのか?家康と四日市との間にどのような関係があったのかを探る方が大切と考えます。
思案橋跡
織田信長から豊臣秀吉にかけて、天下統一がなされました。この時期(織豊期と書いてみえます)に、各地に大きな城が造られ、城を中心に人が集められて町が形成されていきます。今の日本の行政的な区画、各都市の基本が作られたのがこの時代なのです。そして、家康は秀吉から四日市を所領としてもらい受けることになる。関東に領国を与えられた家康が、なぜ四日市を所領としたのでしょうか?渡海の折の“思案橋での恩を忘れなかった”と、そんな単純な意味からではなさそうです。
享保年間(1716~1736年)の四日市 目で見る 四日市の百年 より この頃になると土橋は勧進橋と呼ばれ、享和以降の第二天領時代には思案橋となった。橋を渡った州の方にも人家が建ち並び、道の整備もかなり進んでいた。
それは、中世後期の伊勢湾は関東との取引で非常に発展していった、この地域一帯は西と東を結ぶ重要な地だったのです。つづく