中世期、伊勢湾を航行する船に、その土地の守護は税金を取っていました。これを“本警固”と云います。対して伊勢神宮への貢物を運ぶ船には“新警固”と云われる税が課せられていました。これは伊勢の外宮が守護に対して、神宮の船に課税するのは免除してくれという記録が残されていたからです。下の図は文明年間(1469~1489)に伊勢湾にあった“警固”の所在地です。
此処に初めて“四日市庭浦(ばうら)”という地名が登場します。これは四日市庭に市場が開かれ、それが湊とセットになっている、という意味です。室町時代の四日市庭(ば)はどんなだったかというと、人が定住するのではなく、定期的に各地から商人が集まってきて市が開かれるようなところでした。普段はというと乞食のたまり場で野良犬がうろつくような寂れた場所だったようです。やがて、16世紀の後半になってくると伊勢湾を多くの船が行き来するようになり、船帳に「市場船」という文字が出てきます。これは市場が共有する船ということで市場を中心に定住者が出てきたことを表しています。
やがて天下は織田信長により統一され、伊勢平野も織田家に組み込まれていきます。織田から豊臣の世になると、家康は事実上の左遷である関東に所領を移されます。この時、関東と近江=これは御台所領と言われていて京都や大阪で使う費用を賄うための所領が与えられ、さらに石部、関、四日市、白塚、中泉、清見寺、島田というところも与えられます。
白塚と四日市間には岡崎がありますが、これら七カ所を見ていただけばわかるように、東海道の道筋にあたる町場となります。当時生産力も低かった関東という地と京都を結ぶ道には、各所に所領が必要だった。後世の記録に、関東へ行く条件としてこれらの地域をもらえるよう願い出たという記録が残っていますが、家康は抜け目なく安全に京都、関東間を行き来できるルートを作っていたのです。では、何も四日市でなくてもと思いますが、当時、桑名は豊臣の大切な所領でした。また白子は、大勢の人が宿泊できるようなところではなかった、だから結果として四日市が選ばれたと考えられます。四日市は家康にとって非常に重要な地だったのです。
“志〇れ葵を 生かした 〇づが 今も下行く 思案橋 ” よめやーーーーん!
三河への“渡海伝承”が今も残るのは、家康が恩を感じて天領にしたからではなく、逆に、四日市の繁栄が家康のおかげだった。だから“思案橋”の話が伝えられているのではないでしょうか。
<付記> 今回掲載の“家康と四日市”は、平成12年11月7日に開催された「第15回市史懇談会」の際に講和された、四日市市史編集専門部会、近世部会委員の播磨良紀先生の講義抄録(四日市市史研究第14集より)を参考にさせていただきました。陳謝!