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Channel: 花の四日市スワマエ商店街
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ぶらり四日市 その七 辻 ①

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正月2日、お天気も良く 風もない暖かな日だったので、札ノ辻から湊へ自転車で出かけた。

旧東海道を北へ上って進むと、昔 四日市宿の中心だった“札ノ辻”にたどり着く。往時の賑わいは その面影もない。

辻から南方角を見る

辻の北西位置に建つ福尾医院跡の“東海道四日市宿資料館”。

土日の開館だったか?今日はお休み

東へ路地を入ると本陣跡の中部西小学校が建つ

校門入り口に 本陣跡である説明板が立っている

四日市宿 陣屋(四日市代官所)

四日市町は江戸時代、享保9年(1724)~享和元年(1801)大和郡山藩領時代を除き、天領(幕府領)であった。便宜上、享保9年以前を第1次天領時代、享和元年以降を第2次天領時代という。

慶長8年(1603)幕臣 水谷九左衛門光勝が竪町の東側に代官所を築き、幕府領支配の拠点とした。代官所は江戸時代を通じ、この地を移動することはなかった。

 第1次天領時代は、九左衛門を初代として24代の代官が任命されている。大和郡山藩領時代にも、やはり付近の藩領を支配するため ここに代官が派遣された。第2次天領時代になると、信楽代官多羅尾氏の支配を受けて、出張陣屋が置かれた。多羅尾氏は1500国石の旗本で、代々設樂代官を勤めたが、四日市陣屋へは手付・手代を派遣して支配にあたらせた。手代・手付の数は、天保10年(1839)には設樂詰22人、江戸詰9人、四日市詰2人であった。

 陣屋の建物自身には時期によって変更があったようであるが、詳細は不明である。写真の絵図には部屋数が42となっている。なお、陣屋の建物は明治維新後、渡会県支所、安濃津県支庁 さらに三重県庁となったが、明治9年(1876)の伊勢暴動の際にすべて焼失した。


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