思案橋(潮呼橋)は、阿瀬知川に架かっていた?現在の地形から見ると、違うように見える。下は昭和53年(1978)の阿瀬知川。
確かに、近鉄駅西から浜田を通りJRの線路をくぐって末広橋から伊勢湾に出ている。下は明治40年(1907)の地図。
ここでも、阿瀬知川の流れは末広橋から旧四日市港へ出ている。国鉄の線路の東(下)に“潮呼橋(思案橋)”の文字がある。当時はまだ橋の形を残していた。次は明治28年(1895)の図。上のマップとはあまり変わっていない。
次は文化3年(1806)。明治から1世紀ほど前になるが、この時に完成した”東海道分間延絵図”では・・・
阿瀬知川が“潮呼橋(後の思案橋)”の下をくぐっているのが分かります。次は寛文年間(1661~1673)の地図。
浜田村の地域が入ってないが、札ノ辻から潮呼橋を渡って、まっすぐ東へ進むと十里の渡しへ出るのが分かる。
正徳3年(1508)の地図。浜田村から潮呼橋(思案橋)をくぐって伊勢湾に出ていたことが分かります。
大きくうねって伊勢湾へ流れ出ていた阿瀬知川は、江戸末期から明治の初期のどこかで、まっすぐ東へ流れるように川筋が変えられたようです。
阿瀬知川は浜田村の田畑を潤し、四日市の町の汚水を集めて伊勢湾に出ていた、重要な血管のようなものでした。