(46) 「たけちゃんの四日市街歩き/第2回、近くで中世の城跡が見られる公園」 - YouTube
まち歩きご案内の第2回が配信されました。GGシニア様のおかげでゴザイマス。良いめぐり逢いを頂戴して、感謝!感謝!であります。お時間の許される方は是非ご覧ください。そこで、鵜の森神社境内に掲示の、俵藤太物語を、再掲載させていただきます。(今、四日市宿で起きた刃傷事件で、経費の出何処がどこなのか勉強中です。今しばらくお待ちください。)
秀郷 父から太刀を譲り受ける醍醐天皇の時代に、俵藤太秀郷という有名な武士がいました。大織冠(だいしょくかん)藤原鎌足の末裔、阿部左大臣魚名公から五代の孫、従五位上(じゅうごいじょう)村雛朝臣(むらおあそん)の嫡男でした。14歳で元服、その名を藤太秀郷と称しました。秀郷は若いころから朝廷に仕え、下野国(しもつけのくに)(栃木県)の領主となりました。ある時、父の村雛朝臣は「わが家には鎌足大臣から伝わる霊剣がある。もう私も年老いたので、そなたに譲ろうと思う。この剣を持って名を上げなさい」と三尺あまりもある黄金造りの太刀を秀郷に譲りました。
秀郷と三上山の大ムカデその頃、近江の国の瀬田の大橋には20丈(60メートル)もある大蛇が横たわり、渡ることができませんでした。それを聞いた秀郷はその橋に行き、大蛇の背中を踏み越えてみせました。が、大蛇はびくともしません。秀郷も、振り返りもせず橋を渡り終えました。その夜、秀郷の宿に美しい女が来て「わたしは昼間の大蛇です。琵琶湖に長く住んでおりますが、三上山の大ムカデが獣や魚を食い散らすので、これを退治する勇士を探そうと、瀬田の橋をふさいでおりました。あなたこそ有志です」と秀郷に大ムカデの退治を頼みました。
秀郷のムカデ退治秀郷は瀬田の大橋で弓矢をかまえ、大ムカデを待ち受けます。五人張の弓に十五足三伏(じゅうごそくみつぶせ)の矢という、大変強い弓矢です。秀郷は天孫降臨(てんそんこうりん)三十二神の内の武神を祀る御神神社(みかみじんじゃ)に祈願して、弓矢の秘伝を授かったと言われています。やがて三上山からやってきた大ムカデに、秀郷は矢を放ちますが、なかなか打ち取ることができません。最後の一矢に唾をして、一心に祈りを込めると、矢は見事にムカデの眉間を射抜き、ムカデは倒れました。
秀郷竜宮でほうびを受ける秀郷が見事に大ムカデを退治したので、琵琶湖の竜神は大変に喜び、米俵、巻絹、鉄兜、釣鐘など、数々の宝物を秀郷に与えました。その米俵からは尽きることなく米があふれ続け、秀郷は「俵藤太」と呼ばれるようになりました。また。兜は「拾六間四方白星兜鉢(じゅうろっけんしほうしろかぶとばち)」というもので、田原家に伝えられました。田原家が四代のあいだに居を構えた浜田城の跡が、この鵜の森神社です。兜は盗難、火災にも遭遇しましたが、今も鵜の森神社に保管され、国の重要文化財に指定されています。