GGシニアさんに 阿瀬知川の動画を作っていただきました。下手な解説でお楽しみください
(108) 「たけちゃんの四日市町歩き/第6回、阿瀬知川の源流を目指して」 - YouTube
後藤采女正(藤勝)亡き後、二人の後継者が判明しています。
長男 忠基は、織田信長に帰属して、天正12年(1584)対秀吉戦争において加賀井駿河守に加勢して、加賀井城に籠城して討ち死にしています。忠基の長男 武基は采女城に居住、その長男 武彦も信長に亡ぼされています。
平成21年の采女(右内部駅 左采女城跡)
そして、その後の後藤家の消息は判明しないままでしたが、昭和30年頃、一身田の高田本山にお世話係として勤めていた、貝家町の村木己之助氏は、雑談の席で『うちらの東の山に、昔 後藤采女守という殿様が居られてな、長い間住んで居られた城跡が今も残っている。真ん中に大きな井戸があってな、正月の朝、山へ行くとその井戸の中から馬のいななく声がするということじゃ。これは織田信長に攻め滅ぼされた時、お姫様がその馬に乗ってその井戸の中へ飛び込まれたという言い伝えがある。』と話すと、多気郡 明和町からきていた人が『後藤采女守の子孫が明和町に住んで居る』という話になり、後日、教育委員会の者が村木氏と明和町へ出かけ確認をしたということでした。現在、末裔の方は神戸小山町に 後藤家を名乗ってみえるそうです。戦乱の中、戦に巻き込まれた波乱の家系図が浮かび上がるようです。