この絵葉書の発行された昭和11年前後はどんな時代だったのか?空母や軍艦が四日市港上に停泊しているのは、いったい何事が起きたのか?知りたいところでゴザイマス。前年に日本は国際連盟を脱退しており、天皇神聖説が国会の場で承認された年でした。四日市市民が国産振興大博覧会で浮かれている頃、着々と戦争への道を歩み始めていたのです。
昭和11年2月26日未明、青年将校によるクーデターが勃発しますが、天皇の激高と強い意志で4日後に鎮圧されます。しかし・・・と半藤一利氏は“B面昭和史”で書いてみえます。
政府や軍部の不穏な動きをよそに、浅草六区などの盛り場は賑わいを呈していた 「B面昭和史」半藤一利著より
『では、その後の1年間は?であるが、その後成立した広田弘毅内閣がとった政策がまずかった。“軍部大臣現役武官制”を復活させ、陸海軍部と協議して「国策ノ基準」を策定した。「外交国防相まって東亜大陸における帝国の進歩を確立するとともに、南方海岸に進出発展する」、すなわち「南北併進」である。そしてその年の12月25日、外務省の親ナチス、反英米的な革新グループ主導のままに“日独防共協定”を締結する。このことを聞いたとき元老の西園寺公望公は「結局、ヒトラーに利用されるばかりで、何も得るところはない」と嘆いたという』
昭和7年に起きた「世界恐慌」からいち早く脱した日本は、景気が良さそうであります。四日市では、昭和10年に大野製網(株)、(株)三重製絨所、東洋モスリン(株)が設立され、12年には、石原産業四日市工場の設立が決まっています。