Tさんからお預かりした 大正11年の青写真で、四日市驛周辺をもう少し徘徊してみましょう。この書類は、東驛前にあった官舎を線路の西側に移転させるにあたって鉄道省より出された申請書で、但し書きには、正式な文書はすでに提出済みであり、これは差し戻された要訂正の書類であるとなっていました。しかし、当時の風景を想像するには、充分魅力ある図面でゴザイマス。
前回記載の合同駅の位置ですが、もう少し東(線路側)に寄っていたと思われます。
大正11年の別の図からは 伊勢鉄道が諏訪駅までの買収が終わっています
西驛開設が大正11年とありましたから、この年に合同駅は取り壊され、同じ場所に西驛が出来たことになります。忙しい年だったようです。
青写真の赤の➡位置
上の写真は、大正8年で踏切から南(駅舎方向)に撮られています(矢印)。右側に合同駅の玄関口があります。左の東驛で降りた客が伊勢線へ乗り換えようとすると、いくつかの線路をまたいでいく必要がありました。
現在
この写真は、再掲載です(四日市の100年より)。昭和3年に完成した伊勢電鉄本社(現:本町プラザ)から西驛を撮ったものです(昭和5年撮影)。四日市駅をスタートした電車が善光寺カーブを曲がって諏訪駅へと向かいます。このカーブの突き当り、西驛の位置に合同駅がありました。三重鉄道の給水塔が驛の手前に残っていると椙山先生は解説してみえます。駅舎の裏には陸橋がみえますが、ホーム階段を挟んで東驛に繋がっていました。ホームには名古屋行の客車が停まっているのが見えます。つづく