昭和1番街へタイムスリップ 黎明編
四日市はその名の通り“四”の付く日に、札ノ辻を中心に市が開かれて発展し、その辻は、東海道と交差した“浜往還”で湊へと伸びていた。明治期になると鉄道が発達し、海運と陸運が可能な“四日市驛”が出来た。また、日露戦争を機に“軽便鉄道法”が発令され、明治末期には、四日市でも室山間に“三重軌道”と菰野間に“四日市鉄道”が敷かれ関西鉄道の“四日市驛”と繋がった。この二つの路線と東海道の交差した地点が“諏訪”である。昭和3年になると、“伊勢電鉄”が“諏訪”と“四日市驛”間の路線を買い取り、二つの軽便鉄道の始発は“諏訪”からとなった。東海道と二つの軽便鉄道と伊勢電鉄、この三つが集中する“諏訪”に賑わいが生まれるのは当然であった。
現 サンシ前より 北岡時計店の時計塔がみえる この先が諏訪駅
昭和17年、旧東海道沿いにあった伊勢電鉄と二つの軽便鉄道は、手狭になったため100メートルほど西の現 北岡時計店南に移される。そして昭和20年6月、市街地はB29の焼夷弾を浴びて焦土と化す。
戦後の諏訪駅
駅構内 左が内部八王子線 直線に湯の山線
昭和31年9月、四日市駅からS字型に曲がって諏訪駅に入っていた“近鉄伊勢線”は、短絡化工事によって海山道駅からまっすぐに桑名方向に向かうことになった。このため諏訪駅は廃止され中央通りを挟んで国鉄四日市駅と対峙するように“近鉄四日市駅”が完成した。この駅前から諏訪駅跡地にわたる地域が現在の1番街である。
駅前の賑わい 水谷宜夫氏提供
午後の諏訪駅前 辻俊文氏提供