見る人を驚かせる、狸を仰天させるような邌り車をと、桶の町の人々は「ぼんぼりお化け」や「大鏡餅」などをつくってきましたが、ついに文化2年(1805年)「大入道」を完成させるのです。椙山満氏はこう書いています。
さらにすぐれた芸のもの、そして昔からの物語など夢を求めた、しかも何度みても見飽きない、よりすご味のある大化け邌り車を、尾張名古屋在住の人形師 竹田寿三郎・竹田藤吉親子に依頼し、親子二代の苦心作として出来上がったのが「大入道」であった。
明治24年頃の木版擦り 北条町の魚盡しと共に 百物語として登場している 大入道
こうして昔は、梵天・大鏡餅・ぼんぼり御所車・千生瓢箪・大入道の順で諏訪神社に邌り込まれたそうで、妖怪のオンパレード、さぞかし見ものだったことでしょう。明治2年には、上下に伸縮するだけの首に、背美鯨(せみくじら)の髭を使い大きく弛ませることで、観客を驚かせるからくり山車に仕上がりました。
これらのお化けは 明治期のデザインのようだ 四日市市の祭りを学ぼう会発刊 四日市祭より
昭和11年の国産振興大博覧会には、久方ぶりに「御所車ぼんぼりお化け」が登場し、大入道と共演をしました。しかし、この時が「ぼんぼりお化け」が市民の前に姿を現した最後でした。
昭和17年の四日市祭りに登場の大入道 戦勝祈願のたすき掛け 写真集:四日市の100年より
昭和20年5月、疎開の為、大入道は西倉川の平野安次郎他二軒の家に移され6月の空襲の難は逃れることが出来ました。そして、終戦後の昭和26年9月の四日市祭りでは、中納屋の邌り藏から出された「大入道」は、市民の熱狂に迎えられ、浜田からの帰り山車では、講和条約の立役者“吉田茂”に変相(装)して、これも又、市民の大歓迎を受けたのでした。