明治期の四日市祭 式典編
明治期の四日市祭りはどんなだったでしょう?9月26日は、試楽(しがく)といって、四日市の各町が陣屋へ練り込み演技を披露しました。浜田村からは新田町の大山だけが北町の大山への挨拶に出向いたそうです。 新田町の小山 天岩戸神楽...
View Article明治以前の四日市祭り 発生と邌り編
四日市祭りは何時から始められたのかは定かでありません。 北条町の魚づくし さて、その起源を探ってみますと、北町の大山車の弊束(お払いに使う御幣)に“延宝七年巳未七月”と記してあったということです。延宝七年は1679年(徳川家綱が第四代征夷大将軍の時代)になります。 袋町の鯨船 大山車は、西町、北町、新田町にもあって、享保九年(1724年)...
View Articleシン大入道 百物語
四日市祭りと云えば、当然“大入道”になりますね。そこで、大入道誕生の秘密を探ってみましょう。 安永年間(1772年〜1781年)に、“南納屋”から“百物語”の邌りが出されています。そして、明治10年には“大魔性活動人形 大入道”になりました。どうやら、突然“大入道”が出現したのではないようです。この経過は、椙山 満先生が「四日市市史 第8号」に“四日市祭禮 百物語”として書いてみえます。...
View Articleシン大入道 百物語②
見る人を驚かせる、狸を仰天させるような邌り車をと、桶の町の人々は「ぼんぼりお化け」や「大鏡餅」などをつくってきましたが、ついに文化2年(1805年)「大入道」を完成させるのです。椙山満氏はこう書いています。 さらにすぐれた芸のもの、そして昔からの物語など夢を求めた、しかも何度みても見飽きない、よりすご味のある大化け邌り車を、尾張名古屋在住の人形師...
View Article近鉄四日市駅が出来るころ
昭和31年 国鉄四日市駅と対峙するように 近鉄四日市駅ができた 辻さんが残していかれた 諏訪駅跡地から西の写真 そこには広大な空き地が残されていた 後年 ここに1番街が形成されることになる 分からなかった 港楽園から天理教 工業高校あたりの変化の様子が 中日新聞さんの空撮で その謎が解けた これです 諏訪駅が機能している中に ほぼ完成の新しい四日市駅
View Article旧四日市を語る会のお祭り
大入道はどうしてつくられたか?桶之町の倉庫群の隅に狸が住み着き、これを脅かし退治するために考案されたカラクリであると紹介しました。なるほど、蔵町の“岩戸山”が狸の邌りであることからも十分考えられることです。化かすことはなくても悪さはあったとおもわれます。 四日市祭りのことを皆さんで話し合っているがまだ不十分であると“旧四日市を語る会...
View Article明治期のお祭りはこうして行われました
前田憲司さんが中心となって編集された“四日市祭”。そこに、明治42年発行の『四日市祭案内記』濵田 生川鉄忠氏著 が資料編として記載されていました。 桶之町の大入道...
View Article失われた海水浴場①
四日市市史の第4節に“恐慌・戦時期の生活と文化”の題で、四日市の海水浴場のことが紹介されていました。 午起海水浴場 昭和6年 遠くに見えるのが保養所、その向こうが三滝川河口...
View Article失われた海水浴場②掖済会と午起海岸
昔の四日市祭りの様子をお話させていただきました ご覧ください 2) 「タイムスリップ/四日市祭りの歴史」 - YouTube さて、明治41年 四日市港北に“海員掖済会”が出来、その前の砂浜は、掖済会前海水浴場として市民に親しまれました。海水浴は当初、レジャーとしてではなく、病気治療というか療養のために海水につかるとされていたようです。勿論ここではレジャーとして利用されていました。 掖済会...
View Article失われた海水浴場③午起海岸
昭和29年、四日市幼稚園に通っていたころと思う。夏の午後、お母ちゃんの手に引かれて“すわとん”前からバスに乗る。ボンネットバスは諏訪新道から三滝通りを左折、突き当たったところを東へ曲がった。乗車時間は約25分、田んぼの中に立つ“午起バス停”に到着。バスを降りると角の食堂は賑わっていた。 昭和28年の空撮 バス停を降りて東へ 高浜住宅を抜け 堤防を上ると海水浴場が広がっていた 昭和13年...
View Article失われた海水浴場④午起海岸 その二
三滝川川口に掛かる大正橋の北詰めを松林に沿って歩く。石垣は海へ出ても続き、松林の間から海浜学校が望まれた。 ここでは昭和10年頃から夏休みになると、虚弱児童の為の体力づくりの海浜学校となり、鵜の森公園では林間学校が開かれた。 昭和11年 この松林を回り込むように100メートルも進むと、一気に白い砂浜が広がる午起海水浴場に出る。...
View Article失われた海水浴場⑤霞ケ浦
午起海水浴場の北、堀切川を超える松原地域は大正11年から“霞ケ浦土地株式会社”の手によって高級別荘地が開発されていた。その隣が有名な“霞ケ浦遊楽園”となる。 竜宮城の門をくぐると霞ケ浦海水浴場入口、そしてタコのシャワー。これらを見ると、幼稚園以前に訪れていた気がする。
View Article失われた海水浴場⑥富田浜遊楽園
風光明媚な霞ケ浦は、白砂遠く連なり青松その間に点綴(てんてい)して、東は遠く駿河三の山岳を望み、知多半島は呼べば応えんとして内海鏡の如く白帆の去来する様は一幅の画面に似たり。西は伊吹鈴鹿の連山、延々長蛇の如く、或いは白雪の皓々たる夕陽の赫々(かくかく)たる亦捨てがたき眺めなり。若しそれ月明の夜...
View Article失われた海水浴場⑦富田浜遊楽園2
(1) 「四日市大入道/誕生の秘密/狸説」 - YouTube 大入道誕生秘話をつくりましたので、ご覧ください 私はこの狸説が有力だと思います なぜなら 蔵町の岩戸山の邌りが狸のお化けですから。岩戸山は、本町さんが引き継がれ 現在に残されています さて、富田浜遊楽園跡地へ出かけた。一昨年前にも訪れたが、深閑とした風景だった。 富田浜駅を降りて海水浴場へ続く道の両側には、土産物屋さんが並んでいた。...
View Article失われた海水浴場⑧霞洋館と三藤旅館
掖済会が出来た明治41年に海水浴客のための臨時停車場が富田浜に開設され、昭和3年に常設駅になった。富田浜一帯は豪邸並ぶ別荘地となり、美しい砂浜を求めて名古屋方面から人が押し寄せました。 本町のまちかど博物館、水谷宜夫さんからお借りした海遊園案内を見ると、“霞ケ浦海遊園”が見られます。富田浜と霞ケ浦は南北にあったのですが、境界は明確ではなかったのでしょうか? 千人風呂...
View Article失われた海水浴場⑨二枚の絵葉書
今週のGGシニアさんの動画は、オラお得意の「映画館巡り」でゴザイマス (1) 「四日市の映画館/諏訪劇場/ロッポニカ四日市/三重劇場」 - YouTube さて、本題に入ります 今回も お休みが多い割には 熱がこもっております さて、...
View Article失われた海水浴場⑩絵葉書の続き
下総人さんが言ってみえる霞ケ浦競馬場の写真が“写された四日市”(四日市市博物館刊)にありました。 競馬場の東は入り江になっているのが分かります 現在は競輪場になっています。小さいころ(昭和30年代)海岸へ遊びに行って、砂浜から眺めたことがありました。怖いおじさんがたくさんいてお金をたくさん使うところと思っていましたが海側は静かで、競輪選手の荒い呼吸の音だけが左から右へと通過していきました。...
View Article失われた海水浴場⑪須賀浦海水浴場
富田は古い町(アイの宿)。富田一色は漁村で、北の須賀浦海水浴場が広がる。“すかうら”と濁らないそうだ。なるほど地名の“天カ須賀”(あまがすか)は濁らない。中央に富洲原小学校があって、水泳着で須賀浦海水浴場まで走ったとお客さんから聞いた。 大正か昭和初期の絵葉書“富田海水浴場”着物姿の女性が歩く 準備?片付け? 町の真ん中に“東洋紡績(現...
View Article失われた海水浴場⑫須賀浦海水浴場2
(3) 「四日市の映画館巡り/弥生館/ぼたん劇場」 - YouTube GGシニアさんにアップしていただきました。弥生館とぼたん劇場の巻でゴザイマス そして反省の巻でもあります もっとうまくしゃべれないかと 頗る後悔の念にさいなまれております 気を取り直して!次回をご期待! 昭和53年の地図を参考に 平次郎橋や海運橋をくぐってきた堀川運河が海にそそぐ河口に構える富洲原港。 魚市場風景 鰹節づくり...
View Article失われた海水浴場⑬蛤のハナシ
富田驛須賀浦蛤共同販売組合(昭和8年11月15日発行)の広告です(適当に解釈して再記します)富洲原は昭和8年当時まだ三重郡でした。広告印刷は、四日市市沖の島町 中川印刷とあります。...
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