四日市祭りと云えば、当然“大入道”になりますね。そこで、大入道誕生の秘密を探ってみましょう。
安永年間(1772年〜1781年)に、“南納屋”から“百物語”の邌りが出されています。そして、明治10年には“大魔性活動人形 大入道”になりました。どうやら、突然“大入道”が出現したのではないようです。この経過は、椙山 満先生が「四日市市史 第8号」に“四日市祭禮 百物語”として書いてみえます。
寛文年間(1660年頃)
享保2年(1717年)、第1期の四日市湊であった勧進橋(後の思案橋)あたりから東方には那古の浦と呼ばれる浜地が広がり、風のない日には蜃気楼を望むことが出来ました。この頃から、浜地の両側には漁師の家が建ち始め、納屋町通りと呼ばれるようになりました。
明和5年(1768年)、納屋町通りは蔵町通りとなり、ここ一帯に家屋が並ぶようになります。北から北納屋、中納屋、中南納屋、南納屋の町割りが出来、賑わいが出てきました。
天保時代
天保時代(1830年〜1843年)になりますと、中南納屋あたりに桶町、その南の南納屋には袋町と新町名が生まれています。海岸には小さな祠(ほこら)と鳥居が立ち乗船場になっていて、思案橋を第1期湊とすると、ここは第2期の湊になります。
東海道分間延絵図(江戸末期)
享保(1716年〜)から天保、明治にかけて、浜地に富田屋文助(富文)の味噌蔵があって桶が多数並び、いつしか桶之町と呼ばれるようになりました。また、岡田久馬家や河原田回漕店の物置倉庫もあって、このうす暗い倉庫群にはたくさんの狸が住み着くようになったのです。この狸が夜間化け物になって町民を脅かすので、懲らしめの為に化け物に勝る妖怪をつくろうと、納屋町の人たちは尾張の人形師に依頼しました。明和5年(1768年)のことです。こうしてつくられたのが、「御所車ぼんぼりお化け」や「大鏡餅」、「梵天」、「千生瓢箪(せんなりびょうたん)」などの怪物山車でした。見る人もびっくりして怖がるような面白い邌り車がこうしてつくられ、披露されたのです。
四日市市史研究より
そして大入道が誕生します。