昔の四日市祭りの様子をお話させていただきました ご覧ください
2) 「タイムスリップ/四日市祭りの歴史」 - YouTube
さて、明治41年 四日市港北に“海員掖済会”が出来、その前の砂浜は、掖済会前海水浴場として市民に親しまれました。海水浴は当初、レジャーとしてではなく、病気治療というか療養のために海水につかるとされていたようです。勿論ここではレジャーとして利用されていました。
掖済会
大正6年5月米国の飛行家アートスミスがここで曲芸飛行を行い、のちに海軍の飛行機が演技を披露しています。
これは港地区自治会さんがお持ちの大正13年の写真です。海岸に飛行機が停まっていて多くの人が見物に来ています。右の三滝川河口には石灰工場があって水のよどみが良く分かります。石灰工場のことは金津さんが“旧四日市を語る 第9集”に書かれており、1922年2月のブログで紹介しました。
2022年2月1日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)
掖済会の隣には造船所、その南隣には牧場の草原が広がりたくさんの乳牛が放牧されていた。大正後期になると河口の堆積物で水が淀み、海水浴に適さなくなったため、三滝川北の午起海岸が、大正12年に整備され、午起海岸として親しまれるようになりました。
これは、午起海岸で行われた昭和18年5月の浦賀ドック(造船所)起工式の様子で、ここでは木造船が造られていました。昭和20年に遭遇した四日市空襲の折は、製造中の船が激しく燃えるさまが見られたようです。
この堤防の階段を上がっていくと、海水浴場の風景が一望できました。