三滝川川口に掛かる大正橋の北詰めを松林に沿って歩く。石垣は海へ出ても続き、松林の間から海浜学校が望まれた。
ここでは昭和10年頃から夏休みになると、虚弱児童の為の体力づくりの海浜学校となり、鵜の森公園では林間学校が開かれた。
昭和11年
この松林を回り込むように100メートルも進むと、一気に白い砂浜が広がる午起海水浴場に出る。
堤防の石段下には、市内循環のバスの終点“午起バス停”があり、昭和4年からは夏季限定の“午起駅”が関西線に開設されて“はまかぜ”や“いそかぜ”が桑名や名古屋からの観光客を運んだ。
昭和27年〜39年にも三岐鉄道が国鉄乗り入れの臨時駅をつくった
現在
一方、四日市在住の子供たちは、タオル1本で徒歩や自転車で駆け付け、葦簀(よしず)張りの休憩所の横で海水パンツ一丁になると、熱い砂地を走るようにして海へ飛び込んだ。
昭和6年の午起海水浴場
午起の海岸は遠浅で、干潮時には400〜500メートルほども沖合に進めたが、途中大人の背丈ほどの深みが出来ていて、子供が溺れることがあった。海浜学校の方を回り込めばよかったのだが、知っている者は少なかった。太陽が傾き始めると、子供たちは脱衣場のシャワーで海水を洗い流し、さっぱりした気分で茄子(なす)や南瓜(かぼちゃ)畑の砂地を通り、ポプラの木の揺れる大正橋を渡って町に帰ったものである。 ※椙山満氏“四日市の海水浴場”を参考にさせていただきました。