文化展望四日市 第3号 昭和60年12月10日発行より椙山先生の投稿
芝田のあたりから浜田を流れて昌栄町で海に出る阿瀬知川。これは幸町の南方で、その阿瀬知川に架かる幸橋の昭和20年代のある朝の風景。草が生い繁る川岸の堤の上をすれ違っていく人。静かにゆっくり流れる川面には朝もやが立ち込めている。
広重の三重川を思い出した。橋の位置が逆ですが、一方は強風と片方は静寂とこれも逆になっている、とは考えすぎでしょうか。けれど、どちらも他人同士のすれ違い?写真を撮られた鈴木嘉一郎さんは、そこまで意識されていたのかな?
昭和60年の幸橋
昭和53年のマップから その場所が分かった 失敗!幸橋はもう一本右(東)の橋でした。ちょうど「阿瀬知川」の「瀬」の字にあたるところでゴザイマス 失敗!失敗!
昔、職人さんに聞いた話ですが、中町から濱田小学校に通うのに、橋を渡らずに川をまたいで通ったと聞きました。良い遊び場だったんでしょう。大きな流れの三瀧川に対して、阿瀬知川は生活に密着していたんですね。濵田の田んぼに水を配り、町中に入ると汚水を集め流れ、諏訪神社の鳥居の下を潜って、東海道と並行に我が家を横断し、浜田の東禅寺裏の流れと合流。昌栄橋を通って伊勢湾へ出て行ったのです。
昭和13年の地図
※昌栄橋北詰めに立てられた稲葉翁の像。昭和初期だったと思います。供出で撤去され戦後中央通りに再建されました。当時は湊の先端でゴザイマシタ。
注:合成
稲葉翁の像が立っていた昌栄橋の北詰めから南を望む(現在・ホントは数か月前)