江戸時代末期の耕地地図を編さん室で書き直されたものです。
「四日市耕地字図」四日市史編さん室
不動寺前の阿瀬知川は細い流れとなり、新田が開発されました。阿瀬知川が直線で海へつながり、別ルートになったため(バイパス化)です。そして、三瀧川へは流れ込まず、蔵町と納屋町を迂回するように大きくターンして伊勢湾へ流れ出ています。十里の渡しへは、札の辻からは、浜往還を東へ、思案橋を通り、現在の開栄橋を渡って船着き場へ向かいました。
東海道分間延絵図より
江戸時代末期にかかれた『東海道分間延絵図』(寛政12年・1800年着手―文化3年・1806年完成)の湊の部分です。右から大橋(思案橋)を渡り、左の渡し場へと繋がっています。
大原呑舟「四日市湊之図」伊達貫一郎氏蔵
さて、この図には、港の燈明台がないことを学芸員である広瀬 毅氏が指摘されています。天保4年(1833年)に支払い終了となっている燈明台の資金を広瀬氏は、さかのぼる3年前の“おかげ参り”で集められたお金が使われたのではないかと書いてみえます。燈台としての役目の他に、“大神宮常夜奉灯”として伊勢神宮への献灯の意味も込められていました。