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Channel: 花の四日市スワマエ商店街
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稲葉翁の決断

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GGシニアさんで 稲葉三右衛門を取り上げていただき アップいたしました

なかなかむつかしい取り組みでしたが、うまくまとめていただきました 一度 ご覧ください

四日市築港と荒神山の出入りの意外な関係」 (youtube.com)

安政元年6月15日丑の上刻(午前1時)、四日市に大地を揺るがす大地震が襲った。稲葉家の被害は無く避難だけで済んだが、浜辺一帯の地盤が約2尺(60センチ)も沈下したので、内海護岸のかさ上げを急いだ。一旦治まったかに思えた11月4日再び地震に襲われ、この時は野寿田新田(昌栄新田)の堤防が大破し、土砂は水路を塞ぎ、四日市湊は、小回船すら航行し得ない状況だった。昭和31年11月3日発行「港の出来るまで」大鳥重敬著

築港前の四日市湊

明治3年12月31日の暮れ六つ(日没の18時頃)、稲葉家では親族眷属が集まり祝いの膳につくのが恒例の行事だった。その席で、いよいよ取り掛かろうとしている築港工事の話がされている。寅高新田の埋め立てには百姓衆から苦情が出ないか、昌栄新田の水路はどうか、浜地で地引網をしている漁夫たちへの説得と心配事は尽きなかった。夜も更け不動寺か得願寺あたりで除夜の鐘が鳴った。

稲葉三右衛門・ラ・ソージュ14号より

明けて明治4年1月元旦。冬晴れの良い日和であった。店の四方を拝した三右衛門は神仏にお灯明を入れ、家族揃ってお屠蘇にお雑煮の膳を囲んだ。元旦は菩提寺に参拝するのが常で、妻おたかと長男 甲太郎を伴って、中納屋の自宅を出、丸池筋から新丁を横切り下新町の曲がり角にあった得願寺の門をくぐった。現在の得願寺は、戦災で一切が灰燼と帰したため戦後復興都市計画事業の区画整理で墓地を泊山霊園に移しているが、当時は、本堂南側に約300坪の霊園があった。墓前に額ずき三右衛門は、嘉永4年11月に没した先代にむかって、事業が滞りなく進むようお願いをした。

大正期の蔵町

この後、諏訪神社へ向かいここでも決心の程を祈念している。当時の諏訪神社は、巨木が生い繁り社殿も立派で荘厳を極めていた。此処で妻子を家へ帰し、その足で南町の伝馬町に黒川彦右衛門を訪ね、北町の福生裕作方から、陣屋跡の渡会県庁四日市支庁、竪町、中町、蔵町の関係筋を回り、蔵町の船会所で新年の挨拶をして戻ったのは昼過ぎであった。


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