四日市はその名が示すように 四の日に市場が開かれてきたことに由来する。湊と東海道がクロスする道に市が開かれ、賑わいが生まれ、やがて常設の店舗となって町がつくられてきた。四日市市の原型は“市”であり、その存続のほんの一部を引き継いでいくのが私たち商店街で生業を持つ商業者の義務であると考えている。以下 続・よっかいち浪漫紀行 北野保 著より
新装になった慈善橋市場の賑わい
平成28年現在 四日市には二十八の市場が開かれているが、最も大きいのが三滝川右岸に接した八幡町にある「三滝川慈善橋市場」である。市場の始まりに大きくかかわっているのは、三重郡農会の飯田哲三農業技手であり、大正9年4月28日付で多気郡から赴任。余剰農産物の直接販売による現金収入確保のため即売場を設けた。昭和20年の空襲で市場は焼失したが25年再開“四日市報徳改善会”と新しく発足した“四日市共栄会”で運営されてきた。そして平成26年三滝川改修工事で側道に仮移転し、平成28年2月7日、“四日市朝市協同組合”が運営の「三滝川慈善橋市場」として新しくオープンした。市場は鉄骨平屋の三棟(約600平方メートル)で、野菜、鮮魚、乾物、総菜、生花難度の48店舗が並び、毎月0・2・5・7の付く日の7時から11頃まで開かれている。
旧四日市を語る会で戦前の店の並びを思い起こしてみえた。大正10年の本町通りと新丁通りの交差点付近を見ると、交差点角、熊澤ビル北側(戦後警察署となる)に“第一公設市場”があり、昭和10年以降空地になったとある。この後、勧業銀行が建つ。三重郡農会の飯田哲三農業技手が着任して、まず手を付けた“第一公設市場”がここだった。しかし 所詮は根無し草 その後 立ち退きを命ぜられ消滅している。