昭和9年の夏休み。菰野に住んでいた小学2年生のKさんは、掖済会前の海岸に来ていた軍艦由良の見学に出かけている。
掖済会横の石灰工場③ - 花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)
リヤカーに乗り、友人のお父さんが引く自転車での出発である。Kさんが当時の様子を“旧四日市を語る”に記録してみえた。私はこの道を再び通ってみたいと思っていた。千種を出、潤田の凱旋門、赤水の小学校、足洗の池、江田神社、海蔵受信所、末永のゴミ焼き場、西町へと続く道を・・・。
Kさん宅は菰野町千種。鈴鹿の山の麓にあった。冬景色の鈴鹿連山をすがすがしい気持と期待で千種まで走ったが、Kさん宅はお留守だった。電話も外されていたが、どなたかがお住まいの様子はうかがえた。ご存命であれば100歳近いことになる。あきらめてKさんの道のりを辿ろうと車を進めると、小高い山の上に“千種城跡”がみえた。
史跡 千種城跡 県指定・昭和38年1月11日 所在地・三重郡菰野町大字千種字城山 所有管理者・菰野町大字千種区
この山城は西側に本丸、東側に出丸の二つの郭に分かれ、その間に空堀が切られている。周囲は、土塁跡が見られ、中世の典型的な山城の形状をよく残している。なお南の向かい城、東の金ヶ原城は、この城の支城といわれている。
城主は、後醍醐天皇に仕えた千種忠顕(ただあき)が、はじめ禅林寺城に拠り(より)、のち要害の地であるこの地に移り城を築いたと伝えられている。城の下は、伊勢から近江へ峠越えの千種街道が通じこの城は軍事、経済上の要衝であった。
戦国期は地方の豪士の頭領として三重郡二十四郷を領して大いに勢威があった。信長そして秀吉の軍勢に攻められ、最後の城主顕理が大坂夏の陣で戦死して廃墟となった。
この地を巡る歴史が、走馬灯のように展開しておりました。中世の山城、後醍醐天皇、千種街道、大坂夏の陣・・・。
つづく
フロク:次回のGGシニア 掖済会前の石灰工場の編集に手間取っておりましたら ついに当店を宣伝せよ!という至上命令が下りました 恥を忍んでの出演でゴザイマス