昭和31年頃、朝はパン食である。とにかく料理づくりを面倒がったお袋は、町の中の利点を利用して周辺商店からの調達第一を考えた。わが家から北へ、1号線へ出たところに“ダイヤパン”があった。浜田にもあったが、ここにもあった。幅の広い店で奥にはズラーっとガラスケースが並んでいて、左にあった食パンを切る機械で、1斤を厚切りで4枚、薄切りで6枚に切ってもらった。それを1本ごと買うので、3斤が4斤あったと思う。隣がとんかつの“すわとん”。超有名店で店の前に観光バスが停まっていたことがある。店頭で親父さんがカツを揚げながら道行く人に大きな声で挨拶をしていた。串カツとわらじのカツのみ。店内でビールのつまみにする時はキャベツがついた。
当店の斜め前が“嶋口屋”である。昔は、鈴鹿方面から馬を引いてきた人が、四日市宿の入り口でひと休みに利用したと聞く。ここの徳利は2合入りで有名だ。ここからは“志の田うどん”を晩御飯のおかずに取り寄せた。35円の蒲鉾、ネギ、揚げの乗ったシンプルなうどんだ。少し豪華になると50円の肉うどんやてんぷらうどんになる。映画を観に行くときは、親父が肉うどんを食べさせてくれた。風邪をひいたときは、鍋持参で素うどんを買いに行く。うどんが伸びるからと汁は別で持ち帰った。いつも“嶋口屋”の“志の田うどん”ばかりだったから、たまに変わったところで食べた。1号線に出たところに“ママ家”があった。ここでラーメンを食べに行った。しょうゆベースのシンプルなラーメンだった。打ち水がしてある店の外は、まぶしく光り、1号線を車が走っていった。
洋食の“ひふみ食堂”へは、小さい頃あまり出かけた記憶はない。オムライスがめっぽうおいしかった記憶がある。“ツルヤ洋菓子店”の鉄板スパゲッティを食べるのはもう少しあとになってからである。昭和38年頃のお正月2日の夜、ツルヤで濃縮ジュースを買い求めた。入口を入って左が2階へ上がる階段、右にはケーキが並ぶガラスケースで、バックには缶詰やジュースの瓶が並んでいた。店内は明るく近代的だった。
中央通り沿いの青苑で餃子を始めて食べた。