大正11年 丸印が新栄橋で右下に掖済会の文字が 後ろの白い部分が牧場になるのか?
新栄橋の先には掖済会があった 唯一の通行路かと思っていたが ああ勘違い!掖済会は明治41年3月『日本海員掖済会三重支部四日市海員寄宿所』として稲場町に造られたものであり 新栄橋は江戸末期から出来ていた しかし 掖済会やその裏手にあった牧場へ行く道として新栄橋は利用されたはずである。
掖済会
腋(わき)から手を添えるという意味で、明治13年 前島密(ひそか)が、船員の医療や宿泊施設として立ち上げたのが掖済会である。明治期までは海水浴というレジャーはなく、海水に浸かる行為は医療用とされていた。四日市では、三滝川口の南岸から旧四日市港の防波堤にかけての砂浜が海水浴場としては最初に開かれた場所で、明治41年この浜に海員掖済会の建物が出来たことから、市民は掖済会前の海水浴場と呼んで親しんだ。
大正13年10月12日 角の石灰工場の影響ばかりではないと思うが ヘドロが河口に流れ出している様子が分かる 黒く見えるところが牧場か?
大正6年5月、米国の飛行家アートスミスが、旧港とこの海岸を中心に曲芸飛行があり、のちに海軍の水上機が離水着水を演技したのもこの海水浴場の砂浜であった。海員掖済会の洋風建物の隣には、船大工の造船所、その南側には牧場の草原があって沢山の牛が放牧されていた。なやプラザで見せていただいた航空写真では、二枚羽の飛行機が浜辺に着水しており、多くの人が集まって来ている。
大正期の絵はがきより 三滝川北には午起の松林が望める
大正期大正後期になるとここは旧港の防波堤で潮流が澱むためか、ヘドロが多くなって海水浴に適さなくなった。