新栄橋の現在の様子を今少し
新栄橋跡から東向きに
右(南)駐車場の向こうが公園になっている
北側 運河は埋められ公園となっている
新栄橋の歴史は古い 江戸末期の地図を見ると 札ノ辻から浜往還を東へ 浜町から蔵町を通って開栄橋(橋の命名は 明治期になって稲葉翁による)に至るが その北隣に橋がある これはのちの新栄橋になる
明治初期の稲葉翁による湊造成の図(上が東になる)にも新栄橋にあたる橋が存在している 当時の橋は何と呼ばれていたのだろうか?
四日市は、明治30年8月市制実施をした。そして、稲葉三右衛門翁の遺志を引き継ぎ、明治39年に市は港の四大事業を樹立 明治40年に取り掛かった。(椙山 満著“四日市市史より)
その四大事業とは、
1.阿瀬知川の開さく(川口の築港化で、のちに阿瀬知川河口にあたる末広川と呼ばれる運河になる)
2.入江の浚渫(港―蓬莱橋―開栄橋―新栄橋―潮呼橋―思案橋に至る運河の浚渫のことで、のちに浜町運河と呼ばれるもの)
3.海面の浚渫埋立(高砂町から南方の海浜を埋め立て、南納屋町との間に納屋運河を造成し、阿瀬知川と結ぶ。のちに尾上町となる。
4.諏訪新道の近代化(諏訪神社-沖ノ島―四日市駅(国鉄)間道路の近代化と、更に高砂町まで延長して新しい港新道をつくる。
この事業は 大正期になってようやく完成する。
本町まちかど博物館の水谷宣夫氏にお借りした明治40年5月発行の“四日市志” その巻末の四日市の地図にも新栄橋らしき橋が載っている
大正11年の地図では 四大事業は終了していて(明治43年竣工) 千歳地区の埋め立ても終わっている
新栄橋は 江戸末期からの存在が確認できた 名前は稲葉翁によって開栄橋となったのちに新栄橋の命名がされたと思うが ずいぶん古くからあった橋である 開栄橋と距離は離れてないのに 必要とされていた なぜか? その先を見ると 掖済会へと伸びていた つづく