明治21年10月5日 稲葉三右衛門に藍綬褒章が決定した。
夙(つと)ニ四日市港ノ壅塞(ようそく)ヲ憂ヒ力ヲ築港事業ニ尽シ海浜一万四千余坪ヲ開築シ溝渠(こうきょ)ヲ鑿(うが)チ漕輸ヲ通シ埠頭ヲ築テ船舶ニ便シ為メニ一家ノ私財ヲ傾タルニ至ㇽ其績方(そのいさおまさ)ニ顕(あら)ハル依(よっ)テ明治14年12月7日勅定(ちょくじょう)ノ藍綬褒章ヲ賜ヒ其善行ヲ表彰ス
明治28年の四日市港(四日市商業会議所)
また、明治36年5月8日 高砂町四日市港では「稲葉三右衛門君 彰功碑(しょうこうひ)」が、四日市十一日会、市議会、商業会議所の有志が発起人となり立てられ除幕式が行われた。
現在の彰功碑
時を経て昭和3年5月13日、市制施行30周年記念事業として、稲葉翁の銅像が昌栄橋畔に造られる。
昌栄橋北詰めに建つ稲葉翁像
稲葉翁銅像除幕式頌歌(しょうか)
一.巌(いわお)の波路渡りくる
文化の潮(うしお)せき入れし
人のいさをに恵まれて
いや栄えゆく四日市。
ニ.ねむる時世(ときよ)の朝明けに
ひとり目ざめて町のため
心をつくし澪(みお)つくし
深くも樹(た)てし港神(みなとがみ)。
三.稲穂のゆかり名美(なぐわし)しき
稲葉のきみが御姿(みすがた)を
今ぞ仰(あお)ぎてかしこくも
ささげまつらむ頌歌(たたえうた)。
ところがこの銅像は、太平洋戦争の折 供出される。
現在、中央通りに建つ稲葉三右衛門銅は、昭和31年に造られたもので、ここには次ように書かれたプレートがはめ込まれています。
四日市の先覚者 三右衛門翁は天保8年岐阜県高須町生まれのちに中納屋の稲葉家をついだ 早くから四日市港の不備をうれい明治6年その修築に着手しあらゆる困苦にたえ巨大な私財を投じ同17年ついにこれを完成して四日市港発展の礎を築いた 功により明治21年藍綬褒章を賜った
明治2年翁の先見の明と不屈の精神をたたえ昌栄橋畔に建設したが太平洋戦争のため供出された
今回この再建にあたり17万市民の絶大な協賛によって四日市駅頭に再び翁の偉容を仰ぐことができた これは翁の遺徳によるとともに市民の喜びである
昭和31年11月文化の日
PPP(パブリック・プライベート・パートナーシップ)という言葉があるそうだ。これは国や県で行う公共事業を民間の資金や能力を活用しようというもので、まさしく稲葉翁は、そのPPPの先覚者であった。しかし、莫大な費用を擁する港の開拓事業は一個人にとっては困難を極めた。
四日市市立図書館蔵
岩村佳樹著“四日市港ができるまで”文芸者刊 によると、まさしく“リアル稲葉翁”。稲葉右衛門の資金との戦いが掲載されていました。 つづく