寛文年間(1661年~1673年)の四日市湊は、不動寺前にありました。船は阿瀬知川河口から大きく曲線を描き不動寺の灯篭を頼りに川を上ってきました。港には、船が停泊できる入江が不可欠でした。
寛文年間の四日市湊 中央左に不動松原がある
下の図は、稲葉三右衛門が美濃の国に生を受けた頃の天保時代の四日市港の図と、その下には、蛇行していた阿瀬知川を直線にし、巳高入新田と野寿田新田の間を掘削して新港入口にした図です。
天保時代の四日市湊
天保時代の阿瀬知川改修 後に昌栄新田(野寿田新田)は地盤沈下を起こす(石原佳樹著 四日市港ができるまで より)
ところが安政元年(1854年)に起きた安政伊賀地震をはじめ安政東海地震により四日市湊は大被害を受けます。昌栄新田(現在の尾上町)の堤防は決壊し海水が流れ込んで地盤沈下により埋没しました。土砂が流れ込んだ四日市港には大型船の停泊が難しくなってしまったのです。
明治5年 廻船問屋を営んでいた稲葉三右衛門は、同業の田中武右衛門と相談して、築港事業に乗り出すことになりました。
「私の考えでは、澪筋(船の通路)の先から600尺(約180メートル)の波除け堤防を造り、構内を浚渫した土砂で澪筋北側の寅高入新田(後の稲場町)と、南側の昌栄新田(後の高砂町と尾上町)の約2万坪近い埋立地を造りたいと思うておりますのや。それにはざっと7万両から8万両(現在の20億円くらいでしょうか?)がかかります。資金は、埋め立てた官有地と自分の土地の売却代金と、汽船から港湾利用料金を取って回したいと考えております」
明治5年11月、二人は県宛てに“四日市港波戸場建築燈明台再興之請願”を出し、即 許可を得ています。しかし、当時は明治政府が立ち上がったばかりで、税収を得るため地租改正を検案中。大蔵省は一個人が税を徴収することに許可を出しませんでした。
明治28年の四日市港 稲葉翁が埋め立てた稲葉町と高砂町 蓬莱橋と開栄橋も出来ていました 蔵町の文字の下あたりに廻船問屋 稲葉家があります