明治8年三右衛門が金策に走る一方、県が築港事業を進めることとなります。県の岩村参事は、築港事業は公共事業であり、個人が行うべきではないという考えでした。彼のバックには従来からの廻船問屋の組織があったようです。
明治8年8月15日三右衛門は、高須村の実兄にあたる資産家の吉田耕平と、県に工事再開を願い出ます。稲場町と高砂町の地券(土地の証券)を戻してもらい、それを担保に10万円(現在に換算すると約2億2千万円位か?)の資金を集めるためでした。しかし、県はこの願いを却下したので、三右衛門は大阪高等裁判所に上訴することにしました。
伊勢暴動の図
明治9年12月政府の地租改正を不満とする伊勢暴動が起きます。松坂から端を発し北へ上って四日市を通過、愛知、岐阜へと広がっていきました。四日市では公共施設や富裕層の家屋が次々と焼き討ちにあいましたが、稲葉家は難を逃れています。この為、県に引き継がれていた築港事業は、一旦中止となります。
明治11年6月 築港事業が県と三右衛門との共同事業であることを理由に裁判所は、三右衛門に敗訴の判決を下します。しかし、将来 地券と借地料は三右衛門に渡されることが約束され、これで三右衛門は明治14年第二期の工事に取り掛かることができました。
この裁判期間中、三右衛門は仲介人(弁護士?)と不払いでトラブルを起こし、逆に訴えられたりしています。裁判に掛かった費用を巡って苦慮する日々が続いたのです。
稲葉町と高砂町の間に掘削された運河 遠くに蓬莱橋が望める(西向き)
明治12年、三右衛門は、県に工事再開を願って見積書を出しています。調整の末、県が引き継いだ三右衛門の費用4800円(1100万円位か?)を放棄することと、三右衛門の事業計画を大きく見直し県が指導することで国から許可が下り、明治14年5月第二期着工となりました。
この図面での防波堤は歪曲している
県と交わした約束では、突出波止場を除いた工事費8600円(約1900万円位?)を250日間で完成させるというもので、難航している直線に突き出た堤防部分は含まれていませんでした。こうしてみると県は、何とかして工事を進めようとする三右衛門の意向を尊重して将来の築港事業に繋げようとしているように感じます。
明治15年1月 第二期工事に150日の延長の御願いが出ていますが、6月の200日延長願いは受理されていません。波止場は曲線にまで至らず、高砂町南の石垣工事が終わって以降 大きな工事は行われませんでした。
現在の高砂町南側
明治17年5月 稲葉三右衛門はこの段階で築港工事を終了としています。